神の恩寵(二)
「何だって?」
信じられない宣言に思わず小さな叫びが出る。しかしセレンはひたと手のひらの上にある珠に目を落とし、クルサートルの言葉を反芻しながら自分に説明するように続けた。
「真の祈りの場はケントロクスではなくてセントポスだ。四神の珠をもって祈る場所はここじゃない」
珠が四方に配され光り輝く円盤が描かれた聖典は、その場所がケントロクスだとはどこにも書いていなかった。もし、ケントロクス教庁がセントポスの役目を一部託されたときセントポスにあった神器と似たものが置かれたのだとしたら、それはあくまでも派生物だ。
「神に祈るなら、本当の祈りの場へ行かないと」
「まさかセレン」
クルサートルの背に寒いものが走る。
「本気で言っているのか、あの惨状だぞ! たとえセントポスが祈りの中心であっても神の恩寵が起きる保証なんてどこにもない!」
激した制止はしかし、静かな応えを受ける。
「でも実際にいま起こっていることが、珠を集めた結果としての神による御業なら、なおさら珠をセントポスへ持っていかないと」
もしこの禍災が自然の力として具現した神の力だとすれば、神の存在の証である。もしそうなら、神の恩寵だってないとは言えない。
目に見えず、声も聞こえない神がどんな考えで人間世界を見下ろしているのかはわからない。セントポスへ四神の珠を捧げたとき、怒りを下すか、救いを垂れるか、可能性はどちらも半々だ。それどころか、何も起こらないのか、何かが起こるのかすら人間には知る由もない。
「だがもう、いまから祈りを捧げたって」
「クルサートル」
セレンが顔を上げた。
「どうなるか確実なことなんて私にも言えない。誰にも言えない。でもどんなに小さくても、可能性が皆無でないなら私は信じたい。いま、私が正しいと信じる行動はそれだ」
良くなるようにと、正しいと、そう信じたことを行動へ。そうすればきっと、神の救いは訪れる——ミネルヴァが繰り返し述べてきた教えだ。
「神がもたらされるのは、信じるというのは、きっと」
不確かな世界の中で足が竦みそうになるとき、信じることができれは、きっと。
「可能性を失くさないように、踏み出すことじゃないかな」
無にならないと、言葉に依らずに導いて――
黒と褐色が混ざり合う空の下、聖地の方角をひたと見つめて臆しもせず立つセレンの姿は、聖画に描かれる気高い存在のようだった。
「もし神が私を孤児になさったのだとしたら、その理由は今のためにあったのではないかな」
月色の瞳がクルサートルの方を向いて優しく輝く。不安も恐れもなく、むしろ礼拝で神に感謝を述べるときと同じ穏やかさで、セレンは柔らかに微笑んだ。
「クルサートルはここにいないと。ケントロクスには皆をまとめる人が必要だ。でも私は本来、どこの人間でもないから」
そう述べて見つめる瞳は強く、満月のように曇りなく澄んで——
「ミネルヴァ先生のことを、頼んだよ」
ふと笑みに細めた眼は一瞬ののちに見えなくなった。一つに結んだ長い髪が宙に揺れ、しなやかな脚が地を蹴る。
「セレ……」
発した名前は、最後まで言えずに途切れた。覚えのある痛みが内側から抉るように肩に走る。毒の発作は伸ばしかけた腕の力を奪い、膝が折れて強かに地を打った。
だが脳天に伝わる衝撃より、いま聞いた言葉が重く頭に響きわたる。
——私は本来、どこの人間でもないから。
「……そんな、ことを……」
最後に見た笑顔が胸に突き刺さる。
なんて美しく穏やかな表情で、なんて哀しい言葉を口にするのか。
そんなことを言わせるためにやってきたのではない。そんな、自分はいなくなっても大丈夫だと言うような。
「いなく、なるなんて……」
走り去った姿はもう見えず、ついさっきまで触れられる位置に彼女がいたところで指を折ろうとしても、空を掴むだけだ。
なぜいままで、伸ばしそうになった手を引っ込めた。
なぜそのまま、その細い手に触れ、握って繋ぎ止めなかった。
彼女だけは、何があろうと信じられたのに。猜疑に満ちた自分にとって確かに正しいと信じられるのは、彼女の笑顔が守られることだけなのに。
恩寵が起こるかどうかを問う前に、どうして自分自身の力で守り抜こうとしなかった。
――いなく、なるなんて……そうしたら……
そんなことが、もし起こったら、俺は。
——まだ……動くだろ、この馬鹿……
鈍痛で動きを失った脚を叱咤する。肩に当てた手にどくどくと脈が伝わってくるのを爪を立てて打ち消し、舌を噛んで脳髄を貫くような痛みを誤魔化す。
——失ったら、俺は――
襲ってきた眩暈が吐き気を呼び起こすがそんなものに構ってはいられない。無視しようと舌を噛み、息を止めて顔を上げる。
すると、正面から聞き慣れた声が名を呼んだ。
「クルサートル」
「ミネルヴァ先生……」
この事態にあってミネルヴァは動揺を全く表していない。セレンが駆けていった方を一瞥し、クルサートルに向き直った。
「先生、俺は」
肩をぐっと掴み、勢いに任せて立ち上がる。
「行きます」
するとミネルヴァは、クルサートルの視線をしかと受け止めて頷いた。
「クルサートル、私は厳しいですからね。簡単に叱ってはあげません。けれど、もしいまあなたが私を置いて行くことを謝ったり、その許しを私に求めたりしていたら、ひっぱたくくらいはしたかもしれないわ」
常と変わらず落ち着いた語り口だが、齢を重ねただけの思慮深さと重みがある。恐らくセレンが駆けていったのを見て悟ったのだろう。
ミネルヴァはクルサートルを見上げながら、手を取って握りしめる。
「神は答えを下さるのではありませんよ。神に頼るばかりの人間は答えに辿り着けません。神はどう行動するのか、選び取ってもたらされる結果を教えはしません。代わりに考える力を下さり、行為を導いてくださる。けれども、その先はお示しになりませんよ」
朗らかだが、髄まで響くのが老婦人の語りである。
「全てを神に頼る人間に、神が救いをもたらすはずがないでしょう。人が生きるとは、自分の意思で決め、動くことなのだから」
迷い、苦しむことなく全て成るなら、感情も思考も要らないはずだ。人が人であるのは、生きるというのは、それでも善きことが訪れると信じて。
「信じるというのはね、時にとてつもなく難しく怖いこともあるでしょう。でも、結果があるか疑問ばかりでは進めないでしょう」
答えは見えない。けれども踏み出すために、必要なのは。
「あなたがいま自ら決めたのなら、信じなさい。それが答えです」
そしてミネルヴァは、「私を理由に使うなんて、セレンもひどいわ」とおどけて怒ってみせてから、相好を崩した。
「行ってらっしゃい。二人が帰ってくる準備をして待っていますからね」
老婦人の微笑みは、慈母の微笑みだ。
そしてそれは、常にセレンとクルサートルの背を押してくれた信頼の証。
クルサートルは皺の多い温かな手を握り返した。
そして自分が次に固く握る手は――
「――必ず帰ります。二人で」
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