第十九章 神の恩寵

神の恩寵(一)

「総帥が、殺された?」

 今度こそ耳を疑った。そんなことは教会内で聞いたこともない。体調が思わしくないと、ミネルヴァも総帥の体を案じていたではないか。

 しかしクルサートルは瞼を閉じ、「今のセントポスは空洞だ」と小さく首を振る。

「俺も直属秘書官の任を父から受け継いだ時に初めて聞いた。教庁でも最高位の役人しか知らない。けして他言してはならない極秘事項だと」

「そんな……なぜそんな重要なことを教庁が……」

 総帥殺害とあれば、教会自治区か否かに拘らず同一の信仰を持つ大陸全体で最も重い罪と言っていい。それをよりにもよって教会の中枢たる教庁が隠すなどあり得ない。

 セレンの驚愕に対しクルサートルの反応は薄く、ただ猛然と火柱が上がる先を一瞥する。

「殺害したのが、教会内部者だからだ」

 冷ややかな告白と同時に、碧色の瞳にセレンが帰ってきてから初めて鋭い光が射す。ちらつく焔のごときそれが表すのは、怒りだ。

「フラメーリで俺たちを襲ったのも教会関係者だった。矢を調べてフラメーリ近郊の教会自治区にそちらの所属者だと問い詰めたら早々に突き出されてきたさ。犯行者は教会組織内でケントロクスのみ主導的立場にあるのは他の教会自治区を蔑ろにしていると吐いて、ケントロクス教庁との関係を否定したがな」

 真実はどうだか、と侮蔑的に吐き捨てる。若くして直属秘書官を務めるクルサートルや、その横にいるセレンを教庁内部者の一部が疎んでいるのは前からだ。そのうちの過激派が、ケントロクス外で同じく現状に不満を抱く自治区の高官と密通している可能性も十二分にあるということだ。

「総帥殺害の理由は『教会外部者との婚姻』と伝えられている。純然たる教会の血を汚したと。秘書官だった父も総帥に妻がいたとは報されていなかったが、隠していたのが何処かから漏れたのだろうと言っていた。素性知れずのままむくろだけが見つかったという」

 自身が見たわけでもないのに、クルサートルはたったいま実際に目の当たりにしているかのように眉間に皺を寄せた。

「分け隔てない慈悲と平和を唱える教会の内部者が、外部者の排斥という考えから教会の統率者に手を下した。神聖な教会に不純物が混じれば権威が籠絡すると」

 フラメーリの襲撃者も、同じく教会組織高官の持つ権威欲が根底にあっての行動だ。結局のところ長い歴史の中で教会そのものが他の公国と変わらぬ権力闘争の当事者になってしまっている。それも聖職者の座を掲げて正統性を主張する点で、正面切って領地拡大を狙う公国よりよほど悪質だ。

 セレンは衝撃に囚われたまま、ただクルサートルの説明を聞くことしかできなかった。だが話が切れてやや呪縛が解けると、少しの間だけ思案顔をすると整理するように口に出す。

「教会組織の機能と治権がケントロクスへ移ったから、セントポスを尊ぶ意識が失われてしまった?」

 クルサートルは頷いた。セレンの飲み込みは早い。いつ頃にケントロクスが教会組織の実務を担う場になったのか史書の中ではっきりと特定はできない。しかしそれほど昔から、変化は進んできてしまったのだ。

 人々の精神的拠り所としての顔と、それを盾に取った私欲と排他の絶えぬ顔――信仰に付随してしまったこの両面性ゆえに、教会自治区は実際、大陸のどこよりも不安定だ。

「祈りより政治機能の方が現実への直接的影響は強い。本来なら神と最も近いとされた真の聖域が顧みられなくなった」

 実際の生活へ及ぼせる力を、聖地セントポスではなく代表教区ケントロクスが得て主人然と大きな顔をすれば、他の教会自治区も同等であろうとする。セントポスとの心理的距離が離れすぎてしまったのだ。

 巡礼路が今や廃れてしまったのが証拠であるように、セントポスへ祈りのために訪れる人々は時を経てほとんどいなくなった。そして大陸の災禍が急増した少し前の時代、疲弊した国々やそれらに挟まれた教会自治区には巡礼に行く余裕が減じ、訪れるのはケントロクス教庁の直属秘書官だけとなり、それが不文律となる。

 しかしそのクルサートルの父親でさえ、セントポスへ参じていたのは要務がある時だけで、祈りのためだけに出かけたという記憶はない。教庁の直属秘書官のみが訪れる慣習にケントロクス教庁が異を唱えるはずもない。他の教区にはない例外的訪問は、教庁の権威の証として利用されてきた。

 そしていまやセントポスは、真実形骸化した。その決定的な契機となったのが総帥の殺害だ。

「ミネルヴァ先生から、昔はセントポスへ他の自治区からも使節があったと聞いていたけど、いまセントポスにケントロクスからの使節しか入っていない本当の理由はむしろ、外界からの訪問を遮断していたのか」

「そうだ。父の時代にはケントロクスの権威のために。そして現在いまは、隠蔽のためにな」

 それもごく少数だけが許され、ケントロクス市民にすら真相は隠される。

「教会内部者による総帥殺害なんて事態が知れ渡れば本当に大陸は大混乱に陥る。教会の信頼が失墜すれば、ミネルヴァ先生たち修道士が何とか繋ぎ止めている自治区との繋がりもあっという間になくなってしまうだろう。世襲だった総帥の後継もいない。隠蔽するしかないというのが老獪どもの主張だ」

 いまのセントポスは閉鎖に等しい。内部保持のために頻繁な確認が行われているだけなのだ――派遣使の報告を受け取るためだけに。特定の人間が留まれば今度はその人間が総帥に代わる地位を言い出すか、また同じ惨事が繰り返される。それを危惧して、常駐の役人すら置けない。

「父親とは違って俺も頻繁な訪問は阻まれている。知っての通り、俺は教庁の古狸どもから毛嫌いされているからな」

 鼻で嗤うしかないが、生意気な若造が聖地訪問によってさらに秘書官の名が持つ力を強める気ではないかという邪推からの牽制だ。

 だがそんな腐り切った状況の終結を望んでとった四神の珠の収集も、神の怒りとしか思えない結果をもたらした。

 常ならば晴れ渡った夕闇が昼に隠れていた星々の姿を蘇らせ、満月の夜には月光に照らされる聖なる地。しかし月日の流れは清らかにあった教会を愚かな人間の醜さでじわじわと腐敗させ、セントポスすらも血で汚れてしまった。

 セレンは空を仰ぎ、いまの間にもますます汚濁を増した色の異様さに唾を呑み込む。

 祈りは本当に届かないのだろうか。いまからできることは、本当に皆無なのだろうか。

 まだ空の端には夕暮れ時の茜色が残っている。見上げると、少しもの寂しい、しかしまた一日を無事に終えられたと、安堵して疲れた身体を癒してくれる暖かな色。

 救いは、本当に全て消えてしまったのだろうか。

「少なくともケントロクス市民の安全を……だが、退避先が」

 クルサートルが唇を噛む。毒の痛みがぶり返してきたのか、呼吸がやや乱れて上体が屈み気味になっている。セントポス方面をきつく睨みつけているのは、痛みに耐えようとしているのか、無関係の人々にまで天から罰が与えられるのは道理に合わないという憤りに、必死で民の安全確保の方法を探しているのか。

「所詮は聖地の機能を託されているに過ぎないケントロクスなど仮の場だ。セントポスを失ったら他の自治区がケントロクス自体を受け入れるかどうか」

 ケントロクスを中心とした教会自治区の関係はセントポスの名の下でこそ守られてきた。各公国がケントロクスやその他の教会自治区に攻め入らないのも、教会組織の頂点に神の地セントポスの存在あってこそなのだ。

 それは、たとえ一部では希薄になっていっているとしても、いまなお四紳の加護が大陸全土の人々の精神に働きかけているからに他ならない。

 火柱の中に繰り返し稲光が落ち、煙らしく見える橙色が下方へ広がる。このまま激化し続ければ、セントポスを襲っている災禍がカタピエ公国へ及ぶのは時間の問題だろう。そこからケントロクスに至るまでどれだけ猶予があるかもわからない。

「ここまで来てしまったアンスルに、もう再生の方法なんてあるのか」

 クルサートルの口から漏れたのは問いではない。絶望に近い喘ぎだ。

「真の祈りの場として在った、セントポスが失われては……」

 希望を失った呟きは掠れ気味になる。

 しかし、その言葉はセレンの耳に奇妙な明朗さを持って聞こえた。

「真の、祈りの」

 ——ケントロクスなどだ。

「そうだ」

 血色の空に囚われていたセレンの瞳に、自我の光が戻る。

 四つの珠を包み込んだ両手を胸の前で開いた。

「セントポスへ行かないと」

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