下る裁定(四)

 穏やかな口調は、作り物に聞こえなかった。

「他の人にも言われるけれど、私は記憶力がいいんだ」

 怒りも蔑みもなく、波のようにゆったりと言葉が続く。

「クルサートルは、神の恩寵が現れるか『試す』とか、神の『意図を問う』とは言ったけれど、神の救いを『信じている』とも、恩寵の顕現を断言したこともなかった」

 クルサートルの目が見開いた。

 そんなことには全く気が付いていなかった。しかし思い返してみれば確かに事実である。「信じる」と表層的な信仰を最も忌み嫌っていることは自覚している。現にいまその言葉を口にしようと思っても苦い唾気が出るだけだ。

 だがそうやって言葉を操作することで、ひょっとしたら嘘をついていないと無意識に自分を守っていたのではないのか?

 そうだとしたら虚偽を述べるよりもタチが悪い。

「いいんだセレン。恩寵が目的だと聞こえるような言い方をしたのは事実だ。騙したのと同じだ。汚く利用したと責められて当然の行いだろう」

 相手に与えただろう痛みに対し、事実を盾に自分だけ傷を免れるのは単なる甘えだ。それなのに首を振り、恥知らずな甘えすら赦そうというのか。

「クルサートルの言い方がどうあれ、私は騙されたなんて思っていない。私自身が信じたかったんだ」

 たゆたう波は心地よい。痛みを和らげる律動に身を委ねてしまいたくなる。そして漣に耳を預けるように、少しの圧もないのに居合わせる者が言葉を挟むのを阻んでしまう。

 黙したままいると、セレンは続けた。

「神が護ってくださると神話や聖典にはあるけれど、無償で救ってくださるなんてどこにも書いていない。加護を得るための前提条件も、どんなふうに恩寵が降るのかも、神は具体的なことを全く仰っていない」

 それはミネルヴァが昔から述べ、そしてついこの間もクルサートルに語った。幾度となく繰り返された説教を反芻しているようなセレンの口ぶりは老婦人を思い起こさせる。

 いまのセレンと同じく、ミネルヴァの語りは神の言葉ではないのに、最も神と心を通じているようだった。

「神がくださるのは、私たちが行動するためのきっかけとか、勇気じゃないかな」

 セレンは暗いままの盤に目を落とした。

「神は姿も見えないし、声も聞こえない。クルサートルの言う通り何を考えていらっしゃるのか私たちには分からない。でも分からないのは神の御心だけではなくて、他人の心もそうだし未来に起こることだってそうだ」

 黒光りする平面は不安を掻き立てる。深淵な闇の遥か下に何が在るのか。しかし神秘を宿すと言われた面は、明度を保っていた時でさえ、室内の鏡像を作り出すだけで内に秘めたものを見せてはくれない。

 不知は疑念や恐怖を生み出し、足を竦ませる。どんな小さな行動でさえ、どういう結果をもたらすのか、確かな保証は一つもない。

「それはとても、本当に怖いけれど、怖いだけのままだと何もできなくなってしまうよね」

 選び取った行いが何かを損なうことにならないか。誰かを傷つけないか。それによって自分も立ち直れなくなるかもしれない。

 たった一歩だけで、座り込んで動けなくなるかもしれない。

 セレンは盤の縁に置いた手指に力を込め、「でも」と吐き出した。

「自分が行うことはきっと正しいと思えれば、踏み出せると思う。神の恩寵を信じるというのは、きっと現状が今より良くなると信じて私たちが踏み出せるようになることなのではないかな」

 この世は形のない闇に似ている。未来に何が待ち受けているのかは誰も答えられないし、過去だって分からないことがある。

「出来事だけではなくて人も同じだ。言葉を聞いても顔を見ても、人が本当は何を考えているのか分からない。当たり前だよね。自分の気持ちすら、もつれてわからなくなるのに」

 クルサートルの瞳を見つめて、不器用に笑い顔を作る。するとクルサートルは口を開きかけたが、そのまま止まった。話される内容を受け止めていながら、まだ自分が赦せず納得できていないのがよく分かる。

 すぐそばにいたはずなのに、こんなに苦しんでいるのに気がつけなかった。なぜ彼が冷たい態度に出たのか、その裏にある優しさにも。

 セレンの胸に痛みと嬉しさが同時に起こる。けれどこの気持ちをなんと称したらいいのか分からない。抱えていた不安の形は変わったけれど、どう伝えれば正しいのだろう。

 いや、正しい形があるのかだってきっと誰も知らない。

「怖いよ。言葉も行動も現実にするのは。けれど何もしないでいたら何も変わらないから。もしその時に私たちが選び取った行為はきっと報われると思えたら」

 正しいと思った行いに従って動き出せば、きっとそれに応えて神が恩寵をもたらしてくださる。今よりも良くなるよう動いたらきっと救いがあると信じられれば、惨憺たる現状の中でも踏み込んでいける。

 対角線上に据えられた四神の珠の色は、薄明かりの中で鈍くとも存在を主張する。それら一つ一つが個々人に降りかかる災厄を直接的に取り除いたことはなかっただろう。しかしそれでも人は珠に宿る加護を信じ、至宝を護ってきた。

「『万物を統べる天の大神に恥じぬ行いを続けますことをここに誓い……』」

 何の力も顕れなかったのに、珠が自ずから礼拝の文句を導き出す。

「『等しき命は等しき関係にあり、神のもたらす自然の恩寵に感謝と敬意を。真心からの行いに四神の加護がおりますよう』」

 クルサートルの呟きを受けてセレンが続ける。アンスルに受け継がれてきた典礼文は、ミネルヴァから常に言い聞かせられてきた文言と同じだ——自分が正しいと信じたことを行いなさい、と。

 噛み締めるように言い終えると、セレンは顔を上げた。そこに暗い影は無い。

「大きな救いはなかったかもしれないけれど、悪い方には進んでいないのではないかな。少なくとも珠を集める中で私は色々な人たちに出会えたし、新しい友人もできた」

 何の奇蹟も起こらない結果が残念でないと言えばきっと嘘になる。しかし絶望や悲嘆はそれほどない。アナトラのレリージェやフラメーリに腰を落ち着けたセルビトゥの公女との繋がり、それにカタピエ領主メリーノの真意も知れた。彼らとの関係は今後きっと状況を良い方向に変えていく力になる気がする。

「自分でも気持ちの整理がついてはいないけれど」

 クルサートルの表情はまだ晴れない。かけるべき最良の言葉は分からない。それでも伝えたかった。

「これだけははっきりしている。クルサートルが優しい、と思うのは」

 激しい憤りと絶望を表し、自責に苛まれて苦渋を浮かべたのは、他でもなく優しさがあったからだ。そうでなければたったいまセレンが発した言葉に対し、驚きだけでなくまだ残る呵責への葛藤を表すはずがない。

 責苦を浴びせるのは無益だし、そんなことをしたらセレン自身が苦しい。自分たちが今できるとすれば別のことだ。

「珠を持って戻ろう、上に。ミネルヴァ先生に帰着の連絡を入れたからそろそろいらっしゃると思う。クルサートルはまず完全に毒の後遺症を治して、これからどうするか……」

 考えないと、と言おうとした時、突然足元がふわりと浮き上がるような感覚があった。何かと思った次の間に重心を完全に失い床に叩きつけられ、セレンの全身が強烈な痛みに襲われた。

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