下る裁定(三)

 表では信仰を唱えながら私欲を肥やしている連中に、お前たちが掲げるような有難い神はいないと示したかったのか。ケントロクスの権威を謳って他を受け容れない人間たちに、教会すら神の庇護下にはないと思い知らせたかったのか。

 それとも、どこかで神に縋っていた自分自身を絶望させることで、きっぱり諦めをつけたかったのか。

 感情は乱れてもつれ、濁り固まっていく。どれも本心だったのかもしれないが、一番の理由がどれかと訊かれても、もう分からない。ただ強く明確なのは、終わりにしたいというその想い。

 神の恩寵が本当にくだるならそれでいい。だが恩寵をもたらしてくれないなら、こんな現実は壊れればいい。

 信仰や神に仕えるという大義を盾に平気で彼女を踏み躙ろうとする奴らなど、腐り切った教会組織など、全て崩れてしまえばいい――人の内にある神の存在もろとも。

 烈しい怨恨が燻り続けて己を煤の如く汚し、不遜な問いで神を糾弾しようとする。

 疑いを知らぬ瞳は、夜の月が持つ曇りなさのままにしておきたかったのに。

「なぜ俺は、この計画にセレンを引き込んでしまったのだろうな……」

 詫びの言葉を口にできるわけがない。そんなものは、あまりに軽薄にしか聞こえない。最も幸せになって欲しいのに、よりにもよって自分の疑信と憎悪に巻き込むとは、愚かしいにもほどがある。

「一番の馬鹿者は……」

 結局は自分だって、身勝手にも彼女に拠り所を求めただけだったのだ。

 醜悪な計略と胎の探り合いに満ちた教会幹部に身を置いて、誰が敵かもわからない。口先の文言を額面通り受け取れば裏に隠された知略にはまる。信頼できると思っていた人間が次の日には手のひらを返すのも日常茶飯事。教会総帥秘書官の地位を妬み、形骸化を画策する高官も一人や二人ではない。

「総帥秘書官といったって教庁に全幅の信頼をおける人間はいない。なら独りで耐えるべきだった。セレンを計画に入れたのは俺が弱かっただけでしかない。恩寵を口実に、騙して……利用した」

 何の裏もなく自分に寄り添い、己を無条件に託せるのはセレンしかいなかった。助けたいと願った相手に、逆に助けを求めてしまった。

 あってはならない過ちだ。自分が侮蔑した者たちよりも咎められるべきは自分ではないのか。そう囁く声は、常に耳元から離れない。

 それ以上近づくな。あくまで仕事の関係として割り切れ――そう言い聞かせ、敢えて冷たい態度を意識するようにと。それなのにつかず離れずの距離にいれば、相手の気持ちの機微に意識が向かう。セレンがふとした隙に見せる表情が愛しくて、好意が垣間見えれば安堵する自分がいる――応える言葉を言う気などないくせに。

 そして大陸の状況を悪化させないために、神に縋るよりも現実的な策としてカタピエからの公女の救出を講じた結果、かえって事態は良くない方向へ向かってしまった。

「カタピエによる珠の収集を阻止しなければならなかったのは本当だよ。神の恩寵が降りないとしても、信仰はすでに象徴的権威を作り出せるだけの力を有している。大国が珠を手中にしているというだけで十分な脅威だ」

 珠を権威の証とする覇権さえ止められれば問題ないはずだった。

 しかしそれだけでは済まなくなる。セレンと邂逅したカタピエ領主メリーノが、あれほどまでの執着を見せるとは予想もつかなかったのだ。

「そのあとはセレンも知っての通りだ……謝罪しても無意味でしかない。怖い想いも辛い想いもさせて」

 あまりに身勝手で無様だ。

 メリーノとセレンの接触が、冷静な判断を鈍らせる。それまではすぐに繕えていた理性の壁を感情が凌駕し始めた。繋ぎ止めるように耳飾りを渡しておきながら、醜い嫉妬に駆られて突き放すような言葉を投げつけて。挙げ句、連れ去られるなんて危険な目に遭わせるとは。

 それだけならまだいい。他の男の影がちらついたら頭で考えるよりも先に想いが揺さぶられた。抑えが効かず、けして侵してはいけない線を踏んで、離れるどころか間近に触れて。

 幼い頃から蓄積した経験で、人との距離に敏感になるよう強いられてきたセレンが、あんな矛盾する扱いを受けて悩まないはずがない。ただでさえ苦境に立たせているのに追い討ちをかけるとは。

 気づけば、守ろうとしたはずの相手の心を荒らすのは、他でもない己になっている。

 神を信じている彼女のそばに、こんな薄汚れた自分がいるなど赦されていいはずがない。赦されてはいけない。

 守りたかった。手を差し伸べられる場所に居たかった。

 しかしなぜ、自分が隣にいていいだろう?

 珠を集めた結果、いずれ待ち受けているのが絶望ではないかと疑いながら駒を進め、もしそれが真実として起こったならば、自分の行為以上の裏切りがあるだろうか。

 これ以上近づき過ぎてはいけない。踏み込んで、醜い己が彼女を汚してはいけない。

 しかし彼女の元を離れたら教庁の者が何をするか分からない。そばにいては自分の感情が危ういと知りながら、そばを離れては彼女の身が危うい。

 自分が招いた災厄だ。それなら自らの心を殺し、彼女を生かすしか道はない。心が守れないなら、せめて身を守れと。

「毒矢を受けたのは、必然の罰だ」

 愛しくて、たまらなく愛しくて、その分だけ憤りが止められなかった。それはいつしか烈しい憎しみに変わり、歪みに歪んで取り返しのつかない業となる。

 毒による死で逃げられる軽い罪であるはずがない。身体に残る気怠さなど生ぬるい。彼女には自分を恨み、憎む権利がある。侮蔑の視線を受けて、この先ずっと忌み嫌われるだけの罰があって当然だ。

 熱で霞む視界の中で、瞬き一つせず見守っていた月色の瞳が微かに細められる。桜色の唇がゆっくりと開いた。

「クルサートルは」

 昔からそばにあった声音で、どんな罵言を聞かねばならないのか。

「嘘をつくことができないよね」

 静かで落ち着いたセレンの声は、常と変わらず優しく澄んでいた。

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