下る裁定(二)

 聞き間違いのはずがない。

 聞き間違いならば、こんな冷たくて哀しい眼を見ているわけがない。

「初めから……」

 乾いた喉からたったいま耳にしたばかりの言葉がこぼれ落ちる。その音が消える頃、クルサートルの顔に歪んだ笑みが浮かんだ。

「もう長らくアンスルは酷い状況だ。悪天候と災害ばかりが続く。ケントロクス教庁から救援が出たのも物心ついてから一体何回あったか知れない。しかも天災が起きれば、より安定した生活を求めて領地争いが激しくなる。協力しあえばいいものを、その逆ばかりに動いて」

 ぽつぽつと低い囁きで紡がれるのは、これまで見てきた惨憺たる世界の状況だ。

 だが、その世界を変えたいと思って今まで動いてきたのではなかったのか。

 疑問の目を感じたのか、盤に注がれていた視線がこちらに向く。クルサートルは瞼にかかる髪をぐしゃりと掻き上げた。

「セレンは、救いを信じていたのにな」

「クルサートルは……」

 ここまでやってきたのは、救いを信じていたからではなかったのか。

 喉元まで出かかるのに、声にならない。

 これは問うべき問いなのか。あまりに哀しい笑みを見ながら、すでに読み取れてしまった答えを言わせるのか。

 でも、もし冷たい笑いが語ることが答えなら、なぜこんなことを。

 訊いてはならないという警鐘ともつれ合う疑問が塊になり、喉の奥に詰まって呼吸を細くする。しかしセレンが相手の胸中がわかるのと同じで、口に出せないままでもクルサートルには伝わってしまう。

「……赦せなかった……」

 掠れた答えは誰に向けたのか。

「神が、どうしても……赦せなかったんだ」

 クルサートルは盤の淵に掛けた手指を、きつく握った。

 盤上に映る己が視界の端に入る。その醜い姿とは対照的な、一点の汚れもないまっすぐな瞳が純然たる疑問を浮かべた。

 それを目にしたら、固く蓋をしていた沸々とした感情がついに抑制を破って溢れ出す。

「大陸を守るのが神だというなら……どうして」

 この清い瞳を知っているなら、どうして。

「どうして――セレンを守ってくれなかったんだ!」

 発するまいとしていた神への怨言が音として響いた途端、胸中で捩じ伏せていた怒りに火がつく。

 災害に次ぐ戦禍の中で難民や孤児は増え続けた。彼らを救済するべきは神に仕えるべき教会だ。それなのに教会組織の上に立ち、人々を救いへ導くべきケントロクスの人間はセレンが見つかった時にどうしたか。

「家族も、記憶も無くして……それだけでもどれだけ辛い想いでいるかわからない子供を奴等はどうしようとした?!」

 ミネルヴァと共に大人たちに囲まれて聞いたのは憐れみや気遣いばかりではない。当時の秘書官だった父と共にいたからこそ、クルサートルには聞こえてしまった。

 一部の神官は不吉だと眉を顰め、少女を安全な屋根の下に留まらせようとは言わず、教庁の体裁だけのために排除しようとした。

「何が『ケントロクスは神に護られた地』だ」

 神に護られた土地であるケントロクスをあるべき姿に保つのが義務だと嘯いて他所者を拒んだのだ。素性知れずの孤児は災厄だと。

 当時の秘書官の息子である自分が声をあげたためにセレンは放り出されずに済んだが、子供であれ一人の人間だ。猜疑心に満ちた眼で見られ、拒まれて、傷つかないはずがないのに。

 修道士や街の人々は行き場をなくした子供に対し、初めから情をかけた。しかもセレンは賢く素直で、子供ながらに自分の立場を理解し慎ましく振る舞う。セレンが何かにつけて遠慮するので修道院の者たちは心を痛めた。それなのに、よりにもよって神の意図を具現化すべき教庁の幹部が冷たい眼差しを向けたのだ。

 一方のセレンは、不条理な囁きや蔑視を受けても荒波が起きぬよう口をつぐみ、自らの私欲は口にせず、住まわせてもらう恩返しと笑って教会の仕事に尽くしてきた。

 そのセレンを見ていて、どうして気づかないではいられただろう。大人たちの意味深な視線を受けて幼いセレンが身を硬くするのを。家族も記憶も失った心細さのせいなのか、時たま哀しさが浮かぶ瞳でミネルヴァに手を伸ばしかけ、ためらうのを。けして涙を流しはしないが、聖堂で一人、歯を食いしばって震えていることがあるのを。

 それでも声を掛ければ、すぐに背筋を伸ばして振り返った。

 歳を重ねるにつれ、セレンの周りには当然ながら信頼と愛情をもって接する人間も増えてくる。教会や修道院の面々だけでなくフィロをはじめとする街の人も、セレンの人柄を認め尊敬も表した。

 ――それなのに、彼女が何をしたと。

 人望が高まるにつれ、従来の忌避に嫉みが混じる。異例の美しさと珍しい瞳が幼い頃より目立つようになったのも一因だった。

 そこにあるのは捻じ曲がった自己愛でしかない。あるときは単純に異物への理由なき不信で。あるときは内面の清らかさを伴った美しさが、自分の立場を凌駕するのではないかという恐れで。

 しかしアナトラでそうだったように、心ない待遇を咎めようとすればセレン自身が止めた。そんなことで諍いを起こすなと。

 やるせなかった。不遇に遭えばゆっくりと瞼を閉じ、感情を殺すのに慣れていってしまうのが。

 セレンが晴れやかに笑ったのを見たことがあっただろうか。控えめな微笑ではなく、心からの幸福を表したことは?

 ――いったい、彼女が何をしたというのだ。

 神はどんなつもりなのだ。

 神は、人々の安寧を約束する神は、何をしているのだ。

 平和を謳いながら自らの保身と権力の掌握に躍起になる輩どもがのうのうと幅を利かせるのを赦し、謂れのない扱いに対して恨み言をひとことも発せず、混じり気のない想いで神に祈る娘には、どうして目もくれないのか。

 月色の美しい瞳には疑念も不信も無い。他の誰よりも澄んだ色をしているのに、どうしてこの瞳が翳らないよう守ってくれないのか。

 父の後継として教庁に出仕するようになると、腐敗した内情に憤りは増すばかりだった。まともな人間はほんの一握りしかいない。上辺では信仰の正当性を言いながら、他の公国と同じく教会勢力の増強を論じる愚者が、式典で大陸の安寧を説く。大陸の覇権は人間ではなく神にある――そう典礼書を読み上げながら。

 ――馬鹿馬鹿しい。

 神はなぜ黙って見ているのだ。欺瞞で満ちた奴らに大きな顔をさせておいて、その横でなぜ彼女が苦しまなくてはならない。

 出仕するたび、神の意図に対する疑問が、憤りが募っていく。

 総帥秘書官の地位を継いでからしばらく経った頃か。日を追うごとに息も苦しくなる教庁の奥であの聖典を見つけた。四神の珠によって光を放つ盤を描いた記述を。

 ――本当に安寧をもたらすというなら、救ってみせろ。

 そんな力を持つならば、救うべきセレン存在はここにいるだろう。教会歴を全て記憶し、他にないほどまっすぐに尽くしている者がいるだろう。

 ――神なら、救ってみせろ。

 仇敵に挑むが如く、己の中で激情が牙を剥く。

 ――救ってみせろ。彼女が、本当に笑えるように。

 もしかしたら絶望に近い感情を抱きながら、我知らず心の片隅で神の力に縋っていたのかもしれない。彼女を救う恩寵への希望を捨てきれなかったのかもしれない。

 しかしそれよりも明確なのは、挑戦に近い反駁。四神の珠が本当に恩寵をもたらす力ならば、救えるものならば――救ってみせろと。

 聖典の類に後世の作り話が含まれるのはざらにある話だと、不信に侵された自分が囁く。吐き気に近い嫌悪感は望みを押し潰し、腹の底でたぎる憤りが怨嗟を繰り返す。

 神は大陸の混沌を見下ろし傍観を決め込むつもりか。

 今までと同じように、慈悲を垂れる気などないのではないか。

 ――これ以上、こんな状況はたくさんだ。

 珠を集めて、もう終わりにしたかった。

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