第十八章 下る裁定

下る裁定(一)

 教庁はいつになく静かだった。

 クルサートルの仕事部屋に通されて座って待っているが、誰の気配も感じられない。濃い橙色の陽の光が差し込み、セレンの影だけを黒く床に映していく。

 側近から聞くところによると、フラメーリ行きの間に問題が起きないよう前倒しで業務を詰め込んだために、ここ数日の仕事は少ないという。今日も庁内で働いている役人は他にいないらしい。おかげでセレンがしばしば教庁内で受ける物言いたげな視線も含みのある囁きも無い。

 余計なことに気を遣わないでいいのは喜ぶべきだが、普段と違うと心地よさよりも違和感の方が強い。

 ただ、落ち着かないのはこの雰囲気のせいなのか、それとも目的の物が手に入った興奮からなのか。

 判断つきかねぬまま手の中で黄土色の珠を徒らに弄んでいると、扉の取手ががちゃりと回る。

「クルサートル!」

 意思より前に体が動く。音を聞いた途端、セレンは椅子から入り口へと駆けていた。待っている間にあった身の置き場に困るような感覚が一瞬にして消え、その正体に初めて気づく。

 落ち着かなかったのは教庁のせいでも珠のせいでもなかった――安心したかったのだ。

 クルサートルは目を開けて自分で立っている。記憶の最後にあってずっと脳裏から離れなかった彼の像が、やっと塗り替えられた。

「良かった、意識が戻って。寝ていなくても平気なのか」

 クルサートルのそばまで来て衝動的に腕を掴む。俯いて陰がかかっているせいなのか、クルサートルの顔はいつもよりも暗く見えた。

「顔色が酷いけれど……やっぱりまだ毒が?」

「いや」

 よく顔を見ようと下から覗き込むと、控えめに視線がずらされる。

「まだ……抜け切ってはいないが、たまに頭痛や発作が起こるだけだ。いまも少し仮眠を、と思ったくらいで仕事に支障もない」

 伏し目がちに言うと、「傷口が」と掴んだ腕をやんわりと離される。そして不確かな足取りで一番近い椅子まで行き、背もたれに手をかけた。

 戻ったと思った安堵がまたも消え去る。いつも彼が纏っている理性的で厳格な強さが見えない。どこに目の焦点を定めようとしているのか分からないのは、体に残る毒素で朦朧としているのか。

 しかしこうした時のクルサートルは、具合を聞き直しても返事は同じだろう。

「クルサートル、見て」

 身体の調子はやはり悪いのかもしれない。それなら、せめて気持ちだけでも上向いて欲しい。

 握っていた手のひらを開き、こちらを向いたクルサートルに示す。

「土を司る四神の珠だ。フラメーリで見た地図が示した通りの場所にあった」

 珠が照明の光を弾き、碧い瞳孔が一瞬開いた。

「集まった。最後の珠だ」

 意識して明朗と述べ、応答を待つ。

 だが、セレンが予想した反応は無かった。

 クルサートルの視線は珠に止められているが、感動どころか僅かの喜色も見えない。常の彼ならばすぐに姿勢を正しただろうに、椅子にもたれたままその場を動こうともしない。

「クルサートル?」

 胸の片隅に生じた靄がじわりと広がりそうになるのを、セレンは相手への呼びかけで無視した。

「早く、あの部屋に」

「――ああ」

 初めて意識が現実に戻されたような返事があった。活力は無く、とても目標が達成された人の様子とは思えない。

 むしろ瞳の碧が表すのは恐れか痛み。それとも――

「行こう」

 しかし感情の正体を掴む前に顔は背けられた。

 橙に彩られた床の上で、背の高い影が動く。だがそれをもう一つが追おうとしたとき、二つの影が薄くなった。

 ふと窓へ目を遣ると、茜色の太陽は濃い雲の向こうへ見えなくなっていた。


 ***


 冷えた石の階段を下り、教庁の地下へ降りる。先が見通せない薄暗い中をかなり下ったのちに一歩踏み出すと、初めてセレンが地下室へ赴いたあの時と同じく、石壁を照らす蝋燭の火の輪がすぐそばの壁から一瞬にして広範囲に広がった。

 暗がりの中に見える台座は以前と変わらぬように感じた。しかしクルサートルの後について近づいたとき、セレンは目を見開いた。

 台座上の盤に落ちた蝋燭の灯りは朧げな輪郭を成すだけで、盤面は燭台を持つクルサートルの手すら映さない。

 前に見た時に盤が有していた鏡の働きはいまや皆無だった。一部に銀鏡を残していたはずの面は、無数の角から成る縁まで余すところなく漆黒に染まっている。

「もう、ここまで……」

 中心から広がっていた黒々とした闇が、ついに全面を侵食したのだ。

 盤面の暗黒はアンスル大陸の状態を可視化する。もはや大陸全土が安寧を欠き、混沌に覆い尽くされているというのか。

「クルサートル」

 クルサートルは闇深い面を見下ろしながら、黙したまま寄りかかるように盤の縁に手をついている。何の反応もない。聞こえていないのだろうか。毒の影響で朦朧としているのか、すでにこの様を知っていて動じていないだけなのか。

「クルサートル、珠を」

 しばしの間があった。

「――分かった」

 蒼白の顔が僅かに上げられた。一瞬だけセレンと目があったが、やはり力なく焦点が定まらない。

 感情が読み取れないうちに、クルサートルはセレンに背を向けて奥へと進んで行った。ためらうような足音が鈍く響き、その音は四つある溝のうち、一番近いひとつの前で止まった。

 フラメーリの紅い珠が盤上に置かれ、再び足音が奥へと遠ざかる。続けて部屋の右に位置する溝にはアナトラの緑の腕輪が、そして奥の溝には北のセルビトゥ、かつてサキアが有した水の珠が音もなく嵌められた。

 クルサートルの指がサキアの首飾りから離れたのを見て、セレンも進み出る。

 初めて手にした時の感銘が消えた今となっては、黄土色をした丸い珠は重さも感じられず、持っているのを忘れるくらいだ。ただの石と言われても納得できそうな、なんでもない素朴な珠だ。

 セレンは最後の珠をそっと摘み上げ、四つ目の溝の前で立ち止まった。風の守る地であるアナトラの緑を正面に見て、明るい土の色をその対角線上に据える。

 指の先を珠から離した。

 微弱な蝋燭の光に包まれ、四つの珠が盤上で淡く光る。

 セレンは息を止めてそれらの至宝ひとつひとつを確かめると、盤上を見守った。

 呼吸の音はない。完全な静寂が身を包む。それが数秒、そして数十秒か。

 身を包む沈黙の圧に瞼を閉じ、そして開けた。

「……何も、起こらない?」

 盤上を支配する闇は何ら変わらずそこに在る。糸ほどの隙間も生まれず、むしろ深淵な黒色は濃さを増したと思わせるほど。

 光はなく、微かな銀の筋さえ浮かばない。

 なおも見つめ続けるが、いくら待っても闇が塗り替わる兆しすら見えてこない。

 ただ四方に安置された四つの珠だけが、薄明かりの中で鈍くその色を主張する。

「……こうだろうと……思っていたんだ」

「え?」

 囁きはさざめきに似ていた。弱々しく微弱に、立ち込めた沈黙を崩す。

 盤上を見つめた顔は死人のように蒼白であり、虚ろな瞳にはまるで生気が無い。

 それが、闇を映して陰を増す。

 絶望か、諦念か、ひとことでは言い表せぬ、いままで見たことのない瞳の色。

「神の救いなど、初めから……どうせあるわけがないんだ……」

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