敵の真意(ニ)
あちこちで緑の葉が敷石の間から顔を出している。土が剥き出しになった溝は朝靄で濡れて色濃くなり、擦り減って窪みができた部分にうっすら水が溜まって滑りやすい。おまけに急な傾斜である。神経を張っていないと転んでしまいそうだ。
セレンは肩からかけた鞄を背負い直し、足裏に力を入れた。
カタピエ内から大陸中央の聖地セントポスへ至る道はいくつかある。現在使われている道はひとつと聞いているが、昔は大陸の様々な地からセントポスへ向かう使節もいた。それが時代の流れとともに少なくなったのは、かたや大陸各地の公国や自治区が信仰よりも自国の繁栄に注力したからであり、かたや教会側が外部からの出入りを制限してきたせいでもある。
この道も伝統が廃れたいまは荒涼としており、たとえ極めて詳しい地図に載っていても、獣道と同じような扱いだった。
――しかしまさか、珠がこんなに近くとは……
セントポスとケントロクスはその機能ゆえかそこまで離れてはおらず、二箇所をほぼ直線で結ぶ道がある。カタピエ領の一部によって隔てられているとはいえ、ケントロクスも大陸中央に近いのだ。
しかしこれまで見つかった三つの石はそれぞれ大陸の北、東、南に分散していた。そのせいでセレンもクルサートルも大陸の中心部に存在を求めようとして来なかったのである。よもや自分たちと同じように石を探しているカタピエ公国に隠れているなど想像しなかった。
視界の横を過ぎていく林の間から、眼下にカタピエの市街が広がっている。市内を歩いているときはどの建物も豪奢に見えたが、いまやおもちゃのようだ。
木々に囲まれた丘陵地で気温は低いはずなのに、坂道であるのに加えて市内に入ってから速足で来たせいで、汗が服を湿らせて気持ち悪い。セレンはすでにやや緩めていた上着の綴じ紐をさらに解いた。
――温度調整もしやすい服で助かった。
いまセレンが着ているのはセルビトゥの公女が見繕ってくれたフラメーリ風の旅装である。外商がよく着るらしい動きやすい仕立てで、合わせて長旅用の丈夫で柔らかな革靴を貸してもらった。セレンがもともと履いていた靴ではこの道ももっと難儀したかもしれない。
公女が推測した通り、フラメーリからの交易手形と変装のおかげでカタピエの検問は難なく通過できた。思い出してみると確かにカタピエは諸国間の中でも特にフラメーリと盛んな取引をしており、役人も常の業務として半ば流れ作業のごとくセレンを通してくれたのである。もしも交易品が何か聞かれた時のためにと、女性用の飾り帯を数本持たされたが、見せる必要もなかった。
高い木立から大きな雫が帽子の
頭上に掲げた手首で細い輪が揺れ、風の珠が陽光を透かして光った。
――ここまでしてもらったのだから急がないと。
涼やかなアナトラの緑の珠とは対象的な、艶めいた紅の宝玉を思い出す。
炉と思われていた聖所の焔が消えた経緯とそこにあった珠の存在を話したら、領主の弟は驚きこそすれ、セレンやクルサートルほどの感銘は受けなかったようだった。むしろ火が消えて安全性が上がったと喜んだくらいだ。
――工場も火に気をつけないで済みますから働く方も楽になるでしょう。これでもっと生産能率も上がるかも。
神の加護を存続の理由に掲げる教会自治区とは違い、産業を要とする現実主義的な国の領民らしい意見である。大陸の者なら誰しも知る珠の伝説についても「そんな話もありましたねえ」とお伽話かのようである。
ただしセレンが珠を希求している旨を話しても、伝説を信じるのかと馬鹿にはせず耳を傾けてくれた。
――フラメーリ建国前にあったものならば、我々の所有ではありません。あんなところで我々の仕事の邪魔をしているくらいならば持つべき方々がお持ちください。
領主の弟は、妻である公女に促されるでもなくケントロクス教庁へ珠が行くのを承諾し、すぐ後に兄であるフラメーリ公からも直々に許しを得られた。
――あと一つ。
火の神の珠はクルサートルと共に先にケントロクスへ向かった。あとは自分がカタピエから最後の珠と共に帰るだけだ。
ふと脳裏に蘇る、目の前で
途端に背筋がぞっとし、息が止まる。叫ぶ自分の呼び声が耳元で聞こえるよう。
――落ち着け。
知らずのうちにセレンの指が耳元へ近づき、小さな紅の石に触る。贈り物をくれた本人の眼の色とは対象的な真紅。いまは冷えた石なのに熱を持つ錯覚がするのは、知らず気持ちが昂っているのだろうか。
泣くのは、今ではない。
紅の石に触れた指先から心なしか力を得た気がして、顔をぐっと上げた。
「ぅわっ」
ちょうどその瞬間である。足裏が強打され、衝動が身体に突き抜けた。歯を強く食いしばって脚の筋肉を強張らせてしばらく耐える。
「またか……」
もう何度目かの揺れだ。打たれたと思ったのは地下からの衝撃だ。
地震というには短すぎるが、突然地面の下から細いもので鋭く打たれるような振動がここに来るまでに数回あった。
何かの前兆なのか、ただの杞憂か。
――焦るな。
そう言い聞かせながら蛇行して登る道を睨み、さらに足を速めた。
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