第十六章 敵の真意

敵の真意(一)

 予想外の発言に側近は耳を疑った。しかし正気なのかと問う間もなく、セレンは感情なく続ける。

「つい先ほどクルサートルと話していたことです。このままカタピエ公国に向かって私たちの目的を遂行すると。こんなことがあった以上、ますます時間を無駄にはできない」

 襲撃者に命を下したのがメリーノかその姉だとしたら、フラメーリにいれば自分たちをもう一度襲うかもしれない。

 相手が自分とクルサートルの会話をどこまで聞いたのかは分からない。だが不確定要素が多いだけに、早急に対応しなければ。

 ――あなたが信じることをなさい。

 すぐそばでミネルヴァがセレンに語りかけるようだ。

 四神の珠を手に入れ、神の恩寵が降りるかどうか。それがクルサートルの賭けであり、その恩寵を信じたのはセレン自身だ。まだ自分にできることがあるのであれば。

「彼だけのためではありません。行かなければ私が納得できない。カタピエ領内なら心得ている。随伴は要りません。通行のため教庁関係者である証明書だけいただきたいのですが」

「しかし教庁からの派遣は神官でしょう。あなたが神官として通るかどうかはかなり怪しいですよ。セレン様のお歳となると修道女に見られるでしょうが、修道女がカタピエに入るとなると――」

「失礼します」

 不意に扉が開き、涼やかな挨拶が側近の反論に割って入った。見れば公女とその夫が茶器の載った盆を手に戸口に立っている。

 狼狽のせいで論調が激しくなっていたためか、入室の伺いにも気づかなかった。どこまで聞かれただろうかと、セレンと側近は顔を見合わせる。

 しかし公女は何食わぬ顔で茶器を卓に置くと、卓に付随する二脚の椅子を引いた。

「お茶をお持ちしました。お二人もお疲れと思いますから少しお座りになっては」

 どう返すべきか迷いつつ、二人は勧められるままに腰を下ろす。無言で差し出された茶器を取り、他にどうしようもなく口をつけた。

「カタピエに行かれるのですね。セレン様お一人で」

 ひと口茶を飲み込んだところで見計らったように公女が口を開いた。不意打ちにセレンの手がびくりと震え、茶碗が受け皿にぶつかる。

 しかしカチャンと音が立つのを聞いても、公女は眉ひとつ動かさず澄まして続けた。

「あそこに入るなら修道女を名乗るより確実な方法がありますわ」

 言いながら公女が夫に手を振ると、彼は無言で頷き廊下へ出て行った。しかしセレンと側近に夫婦間の了解がわかるはずもない。

「セレン様に合う他の方法などあるとは思われませんが」

「簡単なことです。フラメーリ国中央商会の交易証をお使いください」

「それは」

「ご心配には及びません。女性商人も服飾品の商いを中心にしょっちゅう出入りしていますから。身元が知れる不安がおありならセレン様をフラメーリ風の装束で仕立てさせます。女性は身なり一つで別人になりますわ」

 そうこう言っている間に夫が一枚の板を手に戻り、それを卓上で滑らせる。板にはフラメーリ領主公認の商会に属する旨と、カタピエとの交易証明が焼き印で押されていた。公国を日常的に出入りする商人に与えられる通行手形である。

 セレンは手形を見つめ、そして公女を見た。すると北方のセルビトゥの血を示す色白の頬が上がって笑みを作る。

「ご事情は詳しくお聞きしませんけれど、セレン様にとってとても大切な方とのとても大切な事柄なのだとお見受けします。そのようなことなら、どうかわたくしにもお手伝いさせてくださいな」

「しかしそこまでしていただくのは悪」

「あら嫌ですわ。セレン様がそんなことを仰るなんて」

 遠慮なくセレンの言葉を遮ると、公女は「ねえ」と夫の方を見上げる。妻への返事の代わりに夫もセレンに笑顔を向けた。

「妻を救ってくださったご恩に対して手形をお渡しするくらい些細なことでしかありません。商人の一人旅なら普通ですし、幸い我が国の者たちは毎日のようにカタピエに出入りしていますから不審に思う人間もいないでしょう」

 そう言われても、セレンにはまだ手形に手を伸ばすのがためらわれた。そんなセレンを見かねて、公女は手形を自らセレンの手に握らせる。

 箱入りの娘とは違う、仕事でやや荒れた手指をセレンの手に重ねて公女は想いを馳せるように語り出す。

「セレン様はご自身のなさったことの大きさが分かっていらっしゃらないのでしょうけれど、わたくしはセレン様のおかげで信じられないくらい変われたのです。行動力も考えもなくて――人も自分も信じられなかったのだと思います」

 それが、と継いで公女は夫と視線を交わす。

「セレン様がメリーノを相手に仰った言葉とお顔から感じたのです。強い意思や信念というのがどういうものかと。その後、自分で思考して生きるよう努めていったら自分が良しと信じることも、信じる相手も得ました」

 彼女の言う相手には、まず横に立つ夫がいるのだろう。心を通わせている者同士が持つ独特の雰囲気が二人の間にある。

「セレン様がわたくしに与えてくださった勇気には比べられないかもしれませんが、今度はわたくしにセレン様の背中を押させてください。そうするのが正しいとわたくしが信じているのです」

 穏やかな口調ではあるが、公女の語調は聞き手の耳を傾けさせる強さがあった。メリーノの館で初めて会った時には全く感じられなかった質のものである。

 けして押し付けではない。しかしこの真摯な想いを拒むのは、それこそ非礼にも過ぎるだろう。

 セレンは手の中に収められた手形を自らの力で握りしめた。

「――ありがとうございます。ご厚意に心から感謝いたします」

「こちらこそ受けて頂いて嬉しいですわ。セレン様のために何かできたと思えますもの」

 そう言って公女が破顔するとセレンも笑みを誘われる。公女を助けたのはミネルヴァの教えを受けて行った行為だ。嬉しさがあるのは、いま相手にもその教えが伝わっていると思うからだろうか。

 話が切れたところで横で聞いていた夫も言い添えた。

「妻の件もありますが、溶解炉の御礼も必要かと思います。先ほど少しお聞きしましたが火を消すことができたと」

「そのことですが」

 言い終わるか終わらぬかのうちにセレンの表情が再び険しくなり、直前とは一変した硬い空気が生じる。緊張を感じ取ったのか、公女夫妻も背筋を伸ばした。

「勝手を承知の上で、領主殿に取り次いでいただきたいお願いがあります」

 カタピエに発つ前に、自分がするべきことはもう一つある。

 寝台に眠るクルサートルに目を遣る。今は苦痛の喘ぎもなく、呼吸の乱れも聞こえない。

 セレンは首から下がる石を握り締め、ゆっくりと口を開いた。


 ***


「本当にお一人で行かれましたね」

 市門の外に向かって目を細め、領主の弟は呟いた。高らかな蹄の残響もすでに消え、震えた空気が静まっていく時の独特の感覚だけが身を包む。

 横に並んだ公女は、すでに馬の姿が見えなくなった道の先を見つめながら、風で乱れた後れ毛を耳にかけた。

「やっぱりあの方はすごいですわ。秘書官様があの状態で、普通なら正気を保つのすら無理でしょうに」

 出立の手助けをしたのは自分とはいえ、本人が去って改めて考えると感嘆を禁じ得ない。解毒できるとしても、もし自分なら夫が目を覚ますまで共にいたいと言い張るだろう。そばにいても何もできないと分かっても不安で狂ってしまうだろうに。

「それなのに、ご自身のなすべきことを冷静に判断なさるなんて」

 とても真似できない、と公女は吐息した。ところが即座に「いや」と背後から否定される。

「今日の彼女は冷静なんかじゃありませんでしたよ。私も騙されましたが」

 どういうことだと振り返る公女と夫をほうって、側近はさっさと踵を返した。

 ――本当は余裕も無いでしょうに。ああも自分の感情を他人には気づかせないとは。

 確かに自分も、セレンが普段通り歳に似合わぬ落ち着きを取り戻したと思ったが、ほんの束の間だった。彼女の明晰な頭脳は知っている。もし本当に冷静でいたなら、教庁使者を名乗ってカタピエに入るなど、セレンのような娘では無理な手段を言い出すはずがない。

「手形を出していただいて本当に助かりましたよ。さもなければ動揺した彼女の行動で私の馘があのおっかない秘書官にとばされるところでした」

 側近はすたすたと歩きながら、参ったものだ、と肩を落とす。今回は助け舟があってよかったが、もし無くても彼女は自力で解決しようとしただろう。

 彼女のように自分の心境を隠せてしまう人間だと、独りで辛い状況と戦う羽目になる。それはさぞかし難儀だ。

 ――いや、違うか。

 はた、と足が止まる。

 ――あの方はきっと、自分で自分の心境にもお気づきにならない方だ。

 果たして総帥秘書官といい彼女といい厄介な人たちである。もう少し器用に生きたら楽だろうにと思わずにはいられない。

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