焔と必罰(五)

「クルサートル!」

 呼びかけても答えない。黄瑪瑙色の髪が揺れてセレンの頬を撫で、そのままクルサートルの頭は力なくセレンの肩にもたれた。

 開けた視界の前方に弓を手に立つ姿が見え、得物を失った二人がそちらへ向かっている。射手が手を挙げて何か示すが、ほぼ同時に「秘書官様!」という叫びが道の向こうから飛んでくる。すると襲撃者はたちまち踵を返して声とは反対の方角へ駆け出した。

 その一連の出来事を目の当たりにしても体が動かない。追わねばという意志すらも生じてくれない。

「クルサートル」

 かろうじて受け止めた体躯には力が入っておらず、自制なくかかってくる体重でそのままセレンを地に座らせる。

 寄りかかってきた肩を支えて顔を覗き込むと、肌に血色がない。頬を叩いてみても瞼は開かない。

 腕が力なく衣の上を滑り、左手がセレンの膝に落ちる。ふとその方を見ると、だらりと下がった腕の先で一本の矢が鈍く光った。鼠色ののうの先で、やじりが黒味がかった褐色に染まっている。

 咄嗟にクルサートルの腕に視線を戻す。裂けた袖の下に現れた皮膚を見て、セレンの心臓がどくりと鳴った。

「セレン様、これは」

 駆けてきたクルサートルの側近はセレンにひと声掛けるなり素早く辺りを見回すと、クルサートルの足先に落ちた矢に目を留めて息を呑む。

「直に触らない方がいいです。恐らく毒が」

 側近は伸ばしかけた手を咄嗟に引き、クルサートルの腕に気づいて目を見開く。だがすぐに顔を引き締めると手拭いを取り出し、矢羽を摘み上げて鏃を布で包んだ。

「何が起きたのか大体想像できますが、まずは秘書官様をどこか落ち着ける場所へ」

「安全性を考えると、宿はやめた方が良いと思います」

 セレンは携帯していた手拭いを取り出し、出血部に自分の手が触れないように気を配りつつも手早くクルサートルの腕に結びつける。「立てますか」と差し伸べられた手に助けられてクルサートルの上体を起こすと、セレンは抑揚なく、だが決然と述べた。

「領主館へ。領主の弟君につてがあります」


 ***


 領主館の居室で寝台に横たわったクルサートルは、呼吸はあるものの瞼を閉じたままだった。痛みが走るのか、時たま顔を歪ませるが意識は戻らない。

「確かにセレン様の仰る通りの毒ですね」

 回収した矢に粘着した液へ鼻を近づけて、側近は再び鏃を布にくるんだ。セレンに代わって彼がクルサートルを担いで歩く間に、セレンが鏃を検分して液の色と匂いから種類を特定したのである。

「さすがセレン様の知識量と記憶力には敬服します。私もそのくらいの頭があれば秘書官様に一泡吹かせるのに」

 セレンへの気遣いなのか、側近は明るく軽口を叩いてみせる。しかしセレンは精気の無い目でクルサートルを見つめたままだった。

 その様を痛ましく思いながらも、沈黙が戻らぬよう側近は続けた。

「この人はいつ刺されるか分からないと思っていましたが、弓矢で来ましたか」

「私が甘かったのです。相手の真意も見抜けず、言葉を信じて心底安堵してしまった」

 他者への過度な同情がセレンの弱いところだとクルサートルに言われたのを思い出す。まさにその同情が油断となり、新手が来たのにも気がつけなかった。

 クルサートルは弱さが悪いのではないと言ったが、今起きた惨事の後でそんな優しい言葉をかけてくれるだろうか。

 ――そのうえ、判断力も無くすなんて……

 息がつまるのを覚え、セレンは唇を噛む。だが言い表しようもない喉の閉塞感は、物理的な痛みでは消えてくれない。

「襲撃者が何者か分からないまま彼らを行かせてしまったのも私の失態です。クルサートルが捕らえていた相手も逃してしまった」

 いつもの自分なら迷いなく逃走を阻止しようとしただろう。迎撃して得た感覚からすれば、膝をついてもすぐに立ち上がって駆け出せば十分追いつく距離だったはずだ。

 それなのに。

「……動けなくなった……」

 無意識に言葉がこぼれた。側近がはたとセレンを見つめる。

 言い訳をしたいのではない。こんなことを口にしても仕方がない。理由を考えたってもう遅い。そう理性では分かっているのに、名伏しがたい塊が自らの中に留めようもなく肥大していく。

「彼を、見たら――」

 目の前で倒れるのを見たら。呼びかけても応えてくれなかったのが分かったら。

 碧い目が、開かないのを知ったら。

「怖か……」

 ――そうだ。

 怖かったのだ。ただひたすらに怖くなったのだ。

 セレンは拳をきつく握り締めた。爪が手のひらに食い込み、肌を朱くする。

 逃走を許した理由に気づいてしまうと、不甲斐なさと呆れで嫌悪感が込み上げる。恐怖に負けて適切な行動すら起こせなくなるとは、一体何のためにフラメーリまで随行してきたのか。

「……本当に救いようもない……自分がこんな弱い人間だなんて」

 ほとんど聞こえぬほどの罵言を吐き捨てると、セレンは寝台に目を落とし再び黙した。泣くでも憤るでもなく、悲哀と後悔が混ざる瞳でクルサートルを見つめる。

 無音が室内の空気を鎮め、停滞させていく。

「……まあ、自責の念も解りますけれど」

 しばし続いた重い沈黙を破ったのは、側近の方だった。

「そういう言葉ならこの人が起きている時に仰ってくださいよ。セレン様が自分のことでそこまで理性を失ったとか知ったら、この人はそれこそ動揺するくらい喜ぶから」

 さらりと述べると、側近はセレンの顔に疑問が混ざったのをみとめて微笑した。

「ああでも、そう悲しそうなお気持ちがあるお顔だと駄目ですね。いつも通りの方が安心するかな」

 月色の瞳がきょとんと丸くなる。すると側近は安心したように肩の力を抜き、クルサートルに当たった矢を卓から取り上げて検分する。

 側近は数回、矢の上下を返して隅から隅まで調べていたが、「この人が起きないと分からないな」と呟くと再び卓上に戻した。

「まあ息もしてますし。ケントロクスの薬師には知れてる類の毒ですから、戻れば薬はあります。そう沈まなくても大丈夫ですよ」

「……はい――ありがとうございます」

「セレン様はいつもの通りのセレン様でいらしてください。それが一番、秘書官様には大事ですよ。いつもそう聞いてます」

「クルサートルから?」

「ええ。正確には秘書官様の心の声からお聞きしています」

 笑い混じりに言ってから、側近は顔を引き締めた。

「ですから――またご自身がやるべきと思うことをなさってください。側近として保証しますが、それがこの人にも最良です」

「――はい」

 返事には、もう芯が取り戻されてきていた。

 信頼は人を強くする。側近としてクルサートルと付き合う中で自ら経験したことだ。この方法はセレンにも有効らしい。

 彼女が常の通りになったのなら心配はないと、側近も手帳を開いて通常と同じ事務的口調に戻る。

「というわけですから、まずはケントロクスに戻ろうと思います。まだセレン様と秘書官様の用事がお済みでないなら教庁の者を二、三人残して先に帰庁しますが」

「大丈夫です。ここで出来ることはほぼ終えました」

「それでは一緒にお帰りに」

「いえ」

 側近は備忘録を書きつけていた手を止め、手帳から顔を上げる。こちらに向けられたセレンの瞳が、先程には失われていた強い意志を示している。

「私は、カタピエに向かいます」

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