焔と必罰(三)

 焔を制し、焔に呑まれぬ珠。まさしく火を司る神による奇蹟が現前している。

 そして微弱に発光する珠を囲む火の輪は、まるで門のように水の珠を迎えている――そう直感させた。

 経験したことのない不思議な熱が指から手へ、そして手首へと這い上がってくるのを感じながら、セレンは奥へ腕を伸ばした。珠と珠が出会うまで、あと僅か。

 人差し指の先がサキアの宝玉もろとも、硬質な面に触れる。

 その直後である。水が飛び散るが如く火の輪が花火のように霧散し光が消えた。皮膚に感じた焼き付けるような熱が一瞬にして和らぎ、無音が制する中でコトンと微かな音がする。

 その音を聞いても、身体が痺れたように動かない。

 セレンもクルサートルも、しばらく息をするのも忘れて暗い炉の中を見つめていた。光を浴び続けて痛みを覚える眼は、まだ暗闇の中に焔の残影を見ている気がする。

 入った時と同じ薄暗さに戻った室内で、ただ蝋燭の淡い光が壁を彩る。

「セレン、中を」

 落ち着いたクルサートルの声が沈黙を崩した。それに反応して、セレンの体もやっと呪縛から解ける。まだ炉内に入れたままだった手を一度出して、もう片方の手にサキアの珠を預けると、クルサートルが燭台を炉に近づけるのを待った。

 先ほどまで燃え盛っていた業火とは対照的な淡い蝋燭の灯火が炉の内部を再び照らし出す。やや窪んだ底には確かに燃料になりうる資材は何もなく、平たい面の上で一粒の紅が光っていた。何の変哲もない宝石と同じように。

 恐る恐る、まず指の先だけで触れてみる。火傷しそうな熱はもうなく、ただほんのりと温感が伝わるだけだ。その温もりに安堵して今度はしっかりと掴み上げる。

 セレンの指に吸い付くように珠が石面から離れた。底に落ちた手の影が薄まる瞬間、面上にうっすらと映る色彩が視界に入る。

「クルサートル、ちょっと待って」

 燭台を炉の入り口から離そうとしていたクルサートルの手が宙で止まる。

「何かあったのか」

「この中、図みたいなものが描いてある」

 珠を手のひらに包み込んでセレンが腕を引き出すと、入れ替わりにクルサートルが炉の前に立った。灯火がうまく内部を照らすよう蝋燭の角度を調整し、二人で炉の奥を覗き込む。

 中はかなり大きな空洞になっており、上部に向かって半球を作っている。およそ人が座れるくらいの高さがあるだろうか。その円蓋に、鮮やかな線で描かれた図像があった。

「これは……」

 色線が堅作るのは数多の書籍にあるものとほぼ同じ大陸の姿だった。その中心に白銀に光るのは、見間違えようもない神の地、セントポス。

 アンスル大陸の古地図である。しかし地名もなければ、現在都市になっている箇所も山林や原野として描かれており、相当時代を遡った頃の図と思われた。

「何故こんなところに」

「もしかして……ここはもともとフラメーリの礼拝所か何かだったのでは」

 国が興る前、現フラメーリ公国の土地は権力を有する長を持たない独立地区だった。聖典には現れるが教会自治区には属さない。しかしそれは、四神信仰がないという意味ではない。

「国が成って外から人が移入した際に、地元民の公共空間も侵されたか」

「もしくは原住民が礼拝所を隠して守ろうとした結果、どこかの時代にここの機能を伝える血筋が途絶えたのかも。今のフラメーリ公国が成る前にはいくつか段階があったから」

 大陸の歴史は長い。史書で辿れるだけでも、フラメーリの地方を巻き込む戦乱は数回あった。土着の民が守るべき対象を侵略の眼から隠そうとした可能性は多分にある。日々の営みの中に紛れ込ませ、為政者の目を盗んで継承し続ける試みは珍しくはない。

 そして愚かなことに、世の動乱が無情にも民を屠り、その尊い対象が忘れ去られることもまた絶えない。時を経て発見される遺物が動かぬ証拠だ。

「もしそうなら、信仰の強くないフラメーリの治世になってからここが邪魔物扱いされたのも納得できるな」

「うん。元が何か知らなければわからないしね。それに教会を別に建ててしまった後では特に関心も起こらないだろうし、どのみちあの焔ではこの古地図も……」

 不意に言葉が切れた。石壁の隅から地図を追っていたセレンの視線が止まる。クルサートルが怪訝に思って視線の先を追うと、古地図の中にひときわ目立つ色を呈した箇所がある。

 目を凝らしてみると、染料の塊に見えるのはそれぞれ記号のような形状だ。現代語とは違うが、文字のようにも見える。しかしそれよりも衝撃を与えるのは記号を持つ地点である。

「珠のあった地か」

 鮮やかな色を冠する地は、北の海沿いと東の平野、それに山脈が描かれた南の地域。測量は正確ではないが、それぞれ現セルビトゥ、アナトラ、そしてフラメーリに概ね合致する。

 そして二人の注意を惹きつけた直後、言葉を失わせたのは四つめの土地である。

 大陸中心に輝く光の周りには、中心を守るように太い帯状の輪がある。その内部、いまの教区ケントロクスと聖地セントポスを繋いだ線上に、黄土色でかたどられた印があった。

 間違いようもない。現在の大国カタピエ首都からセントポスへ向かう道の一つである。

 カタピエがまだ領土を広げる途中の時代に描かれたのか、帯状の部分は今よりもまだずっと小さいが、確かに他の地とは色で区切られて独立した国を示している。

「あの記号はどれも神々が司る自然物を象徴する形だ。教会内部の隠語のように使われていたはず」

 クルサートルの前に立ち、セレンは地図を見つめたまま思考を整理しながら話し出す。

「ずっと前に見たのだと思う。どこでだったか……クルサートルの家か、修道院の書庫か……いや、違うかな、どこだろう」

 そう言われてもクルサートルには記憶がない。教庁の書も含めて相当量を読んでいるはずだが、学んだ古文字の中にも類する書体は無かったように思う。

「教会関係か、歴史書や何かか」

「何だったか……随分前に見たと思ったのだけれど」

 歯切れの悪い返事をしながらセレンは顔を歪めた。眉間に皺を寄せてしばらく記憶の隅まで巡っているようだったが、とうとう「ごめん、分からない」と音をあげる。

 セレンの驚嘆する記憶能力からすると珍しいこともあるものだ。クルサートルは気落ちしているセレンに出来るだけ普通に笑いかけた。

「大した問題ではないから気にするなよ。もしかしたら忘れている子供の頃の記憶かもしれない」

「でも、出どころがわからないと間違いかもしれないし」

「それも一理はあるが、セレンがそう言うなら俺は信じる」

 何の計算もなく自然に出た本心である。するとセレンのすまなそうな顔に弱い笑みが混ざり、「ありがとう」と小さな応えがあった。

 セレンが自分を咎める必要はどこにも無いのだ。クルサートルは内心で安堵しつつ、それを悟られないよう地図に向き直った。

「この地図が珠の在り処を表すとすると、そもそも原初より珠は現代の地に与えられていたか、この場所に地図が描かれた時にはその地にあったということだろう」

「多分、極少数の人々には他の珠がどこにあるのかも伝えられていたのかもしれない」

 サキアの珠のような力がなければ燃え続ける珠を移動させるのは難しい。先に珠があり、聖なる空間と定められたあとで地図が描かれたと考えるのが妥当だ。きっとその昔は前面を覆う壁はなく、後から至宝を隠すために小さな開口部だけつけて石で覆ってしまったのだろう。

 おそらく人々は扉を開けて時折り祈っていたのではないか。そしてサキアの珠がテッレ教区の聖堂に描かれていたように、はっきり分からぬ形であれ、人々は至宝の存在を何らかの方法で子孫に伝えるべく尽力したのではないか。

 もしそうならば懸念すべき問題がある。

「一刻も早くカタピエに行かなければならないな」

 類似の遺物がカタピエで見つかれば、メリーノに最後の珠を先取されるのは必至だ。

 セレンが紅の珠を他の珠と共に小袋にしまうと、クルサートルは炉の扉を閉めた。先ほどの神秘的なまでに明るい焔が消えれば、室内はどこにでもある職工の作業場である。

 公女の夫は「店に直接戻ってきても構わない」と言って鍵も預けてくれていた。待つ必要がないのはありがたい。こうなってはわずかな時間も無駄にはしたくない。

「水と火、それからアナトラの風となると、残るカタピエ国の珠が制するのは土か。メリーノの姉が珠を狙って来ているなら、自国カタピエの分は弟に任せたとも考えられるな」

「クルサートルが教庁を空けられる日数は限られているし、一緒に行くならすぐにカタピエに直行しよう」

「そのつもりだ。まずはあの主人から領主に取りついでもらって、この珠を借りる許可を……」

 話しながらクルサートルは工場の扉を開けた。途端に外界の新鮮な空気が肺に流れ込む。

 それと同時だった。

 頬に当たる一陣の風と、空を切る鋭い刃鳴りの音。続けざまに耳に飛び込む高い金属音。

「これはまた……」

「ご挨拶だな」

 黒服の二人組を前に、クルサートルの長剣とセレンの短剣は磨き抜かれた白刃を空で受け止めていた。

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