縁の吉兆(二)

 ミネルヴァが教庁に寄ったのは、もう日も落ちて庁内の勤め人もあらかた帰った頃だった。ケントロクス市内の各地区教会を回って修道院へ帰る途中だと言って、老婦人は携えていた各教会の現状報告書を手渡した。

「という具合で、次の聖祭の役割分担は決まりましたから」

「はあ……それだけ、ですか?」

 てっきり留守中の仔細を問われるのかと思いきや、ミネルヴァの話が報告書の簡単な説明で終わってしまったので拍子抜けする。わざわざ教庁まで遠回りしなくても報告書だけ誰かに託してくれれば済む話である。

 そう高齢の老婦人に遠慮を伝えると、ミネルヴァは「まぁ」と娘さながらに頬を膨らませて憤慨してみせた。

「クルサートル、私はまだまだ若いでしょう」

「ええと、そうは言ってもやはりそろそろお体が」

「何を言います。あなた方みたいに机にへばりついている方々が子供たちと一緒に遊べるかしら。私が若者に負けずに動き回れるのはこうして自分で歩き回るからですよ」

 確かに背筋を伸ばし、えへん、と言いそうなくらい気持ちばかりふんぞり返ってみせているので元気には違いない。だが、夜遅くになってミネルヴァが来るとすれば。

「ミネルヴァ先生、何か俺に仰りたいことがあるんでしょう」

 単刀直入に聞くのが正解だと昔からの勘が働く。ただ、すぐには返さず黙ったままにこやかに微笑んでいるのがそら恐ろしい。

 そもそも夜は特に、セレンを修道院に一人にする時間を長くしないというのがミネルヴァの信条である。その修道院長が日暮れ後に訪れる理由は、十中八九セレンが関係している。

「それでねクルサートル」

 来るか――相手の手強さはフィロの比ではないが、こうなったら逃げられない。朗らかな微笑を伴う呼びかけを受け、覚悟して唾を飲み込む。

「神は姿も見えなければ声も聞こえないでしょう」

「――は?」

 無意識に拳を握りしめて厳格な断罪を待っていた耳は、結局何を聞いたのかいまいち理解できていない。

 一方のミネルヴァは、腑抜けた返事にも眉すら動かさず続ける。

「例えばセントポスやケントロクスが神に守護された地だと言っても、天の大神は他の地をお守りになっていないとも、この地に他の者が入るなとも、御言葉みことばはありません。そもそも『神の恩寵があられる』と聖典で読んでも、どうしたら神が恩寵をもたらしてくださるのか確かな方法はお示しになりません」

 クルサートルを前にしながら、老婦人はまるで匿名の公衆を相手に語るようだ。それでいて個人に向けるように、耳に入ってそのまま何の抵抗もなく内側に浸透するのが彼女独特の話し方である。穏やかな波長でもって相手の耳を傾けさせる。

「私は常々、あなたにもセレンにも、自分が正しいと思うことを信じなさいと言うけれどもね。何を信じるのか、何を信じないのか、人によって変わります。同じアンスル大陸の神々の下にいても。ただ、信じるだけでも何も動いてくれないわね。自らがどう動くか、これも大事だと昔から言っていますね」

 ミネルヴァはクルサートルの手に自分の手をそっと重ねた。説教壇の上に立ってもこうして間近に座っていても、ミネルヴァはいつも慈母の顔である。子供の頃からそうだった。この婦人は、心の内に寄り添うように相手の目を見つめる。

 そしてひとつひとつの言葉をゆっくりと紡いでいく。

「あなたにとって何が大切なのか。そのためにはどうしたらいいのか。それから、見失っては駄目ですよ。あなたも幸せになるにはどうしたら良いのかを」

「俺にはそんな資……」

「クルサートル」

 母と変わらぬミネルヴァの愛情はあまりに寛容で、黒々とした思念を抱える自分が受け取っていいのか躊躇する。しかしそんな心中をも見通すのか、否定的な問いを発することすら止められてしまう。

「よく考えなさい。『信仰』とはどういうことなのか。なぜ『神を信じる』のか」

「先生」

「大丈夫です。あなたなら」

 静かでありながら強い響きは、揺れる心をその場に止まらせる。

 数秒ほど黙したままクルサートルを見つめると、ミネルヴァはクルサートルの手を、その上に重ねていた自分の手で大事そうに包み込んだ。

「あの子をお願いね」

 帰り際に述べられたのは自分への頼みなのに、守られるのはあなたですよ、と言われているようだった。



「だめだ。また流された」

 はっと意識が記憶の中から戻る。追いついたセレンがすまなそうにこちらを見ていた。

「もう、次の角を行けばいいから。早いところここの業務を終わらそう」

「うん」

 首肯するセレンは、自分を信じて疑わない。

 それが確かめられるたびに胸が痛む――いまも。

『仕事』と銘打った自分の計画から彼女を切り離す方が正しいはずだと知りながら、いつまでも引き延ばしていること自体が罪だというのに、連れてくるなんてどこまで愚かなのか。

 南の都市は暑い。それをさらにいや増す人混みの熱気が、思考を弱くしそうだ。

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