第五部 四神の宝珠
第十四章 縁の吉兆
縁の吉兆(一)
夏の朝独特の爽やかな空気は、この街には無縁なのだろうか。日の出後まもないというのに街中が生気に満ち、早くも昼日中のごとく蒸した気が街路に漂っている。
「クルサートル、待って」
わずかな油断で行き交う人々の波に押し流されそうになるところを、セレンはなんとか踏みとどまった。小さく叫んだら、人垣の向こうに隠れかけた黄瑪瑙色の頭が振り返る。
「大丈夫か」
「うん。ごめん」
その言葉に反応して前にいた通行人が左に寄ってくれた。会釈をしつつ小走りに通り抜けると、足を止めたクルサートルが再び歩き出す。
「こんなに栄えた都市だとは思わなかった。クルサートルも来るのは初めてだったっけ」
「フラメーリは中立国の中でもあまり信仰心が強くはないからな。考えてみればフラメーリが国として立つ前ならこの地も聖典には出てくるが」
古来、鉱山地帯の中にできた人里で、どこにも属さない憩いの地として在り、今の発展に繋がっている。都市自体の歴史は古いのだ。
「盲点だった。ここ最近、公国領主はかなり穏やかで面倒ごともないし」
「ケントロクス教庁が関わる機会も少ないんだな……っと……」
脇道から駆け出てきた郵便配達人がセレンの前を遮った。よけようと一歩下がると、その隙に別の人がクルサートルとの間を通り過ぎ、また人垣に飲まれそうになる。
「悪い。気をつけていたつもりなんだが」
「こっちこそごめん。こんな人混みは慣れなくて」
言いながらもまた人に押され、危うく転びそうになる。均衡を取ろうと腕を伸ばしたら、すぐ先にクルサートルの手が見えた。
指先が触れてしまう――咄嗟に拳を作って体勢を保つ。
「――はぐれないようにするだけでも難儀だな」
「そう、だね」
クルサートルの手が一瞬こちらに振れて、すぐに戻ったように見えた。
「市の中央教会までは近いはずだから。大通りももう少しで終わる」
セレンは前に向き直ったクルサートルの背中に向かって頷いた。歩くのに合わせてわずかに揺れる手は、自分の手より随分と大きい。
幼い頃、ケントロクス市内の祭りを二人で回った時には、はぐれないようどちらともなく手を繋いでいた。今もすぐ届く距離にあるのに、ずいぶん遠くにある気がする。
祭りの賑わいの中で固く握りあった手のひらが、いまは自分の手をすっぽり包んでしまいそうに大きくなった。
――ひどく不器用になった気がするな。
ともかく人波に流されないようにと足を急がせる。左右へ目を配るのに精一杯で、先を行くクルサートルがたびたび短く返り見るのにも、セレンは気が付かなかった。
――商業都市で幸いしたな……
セレンが黒髪を揺らしてついてくるのを確かめ、手を差し出せない歯痒さとともに、壁を作る人混みにどこかで安堵している。
引いた線を崩さないまま守り切ることはできるだろうか。
己が汚い自己から目を逸らそうとしているのを無視しようにも不可能だ。自分の思考ほど手に負えないものはない。
――信じると言っても自分すら信じられないのに、一体何を信じろというのだ。
出立前に交わした老婦人との会話が、頭の中に去来する。
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