枷と切望(三)
地図上でアンスル大陸の南に連なる火山地帯に指を滑らせ、鉱山の一点に止める。ケントロクス方面から延びてその地に至る公道を目で追い、卓上に立った羽ペンを取り上げた。
傍に広げた紙にペン先を下ろそうとすると、扉の外で入室の請いがある。
「フラメーリ行きの日にちが捻出できました。会議とケントロクス教区外との雑事を今後五日ほどに詰め込めば」
部屋に入るなり側近が義務的に報告する。彼が抱えている分厚い紙の束を嫌そうに一瞥してから、クルサートルは地図に向き直った。色を分けて大小様々な区画が描かれているのだけを見れば目に楽しい図であるが、各地の内状を思うと畳んでしまいたくもなる。
大陸内の公国間で始まった勢力争いに、最近はケントロクス以外の教会自治区まで首を突っ込み始めている。その皆が皆、神の下での自由平等を謳いながら指導者としての正当性を
「会議外の時間に議定書とかの処理をなされば出発前日の睡眠は確保できますから、頑張ってください」
「たまに俺はおまえが無慈悲だと思うな」
「心外ですね。これでも最善の調整をしたんですよ。限られた人数で難儀なんです。私があなたについて、ここには任せられる別の人間を残していくわけですから」
「感謝する」
本心から述べると、地図に垂直に立てたペンを傾け、一気に引く。教区ケントロクスとフラメーリ公国がはっきりとした黒線で繋がれた。鉱山地帯の中でも商業の栄えたフラメーリ公国は自国までの交通の整備にも積極的だ。ケントロクス市内にも頻繁にやり取りしている商家があったはずだ。
「後でミネルヴァ先生がいらっしゃると言っていました。不在中のことに関する用件だと思いますが」
頷きだけ返してクルサートルは側近が差し出した紙を受け取った。一枚目は教会総帥管理区セントポス通信使の定期報告、二枚目はアナトラ州から送られてきた現状通達だ。
前者の報告はいつも同じである。いや、変化があるはずもないと言った方が正しい。
――無意味だな。
クルサートルは過去の報告書をまとめた束を開き、一つ前と一字も変わらぬ文言の上に新しい一枚を重ねて綴じた。さらに気分が悪くなる前に表紙を閉じ、もう一方の通達書に眼を通す。
「アナトラ州都の修繕は終結に向かうか」
「この点は問題なく。それとは別件で、北部の海沿いに
どく、と脈が大きく打つ。ここ最近、この感覚は頻繁に体に走る。
「人災が無いならいい。それよりフラメーリ公国に行く前の詳細を」
身の内で鳴る音は耳を塞ごうが消えまい。敢えて必要以上に明瞭に発音し、クルサートルは話題を変えた。不自然な言い方になっていなかっただろうか。そんな危惧がまた耳障りな音を増幅する。
だがこの側近も付き合いが長い。気付いたのかそうでないのか、何も言わない。クルサートルにとっては幸いなことに、出立前の細々した審議事項や留守中の業務について淡々とした説明が続くだけだった。
あらかたの打ち合わせが済んだ頃には、早くも日が傾く頃になっていた。雲が流れたのか、卓の上の紙が朱色に塗られ始める。
「ところで」
側近は窓に掛かる薄布を引いた。
「フラメーリ公国に彼女は連れていらっしゃるのですか」
数秒の間があった。
「連れて行く。仕事だ」
「そうですか」
端的な問いと返答から感情は読み取れないが、こちらの意図は承知しているのだろう。
前回のアナトラ州でのセレンの功績は、修道女やまともな神官には讃えられたが、いかんせん目立ち過ぎた。特にレリージェとの個人的な会話があったとのことで、無駄に勘繰る人間がいなくもない。
加えて先日のクルサートルの夜間外出も、その後数日セレンが教会学校を休んだのが理由で、裏に伏せた理由を詮索する目がある。教庁とミネルヴァとの繋がりが強化されるという理由でセレンが教庁に出入りするのを認めていた者たちも、次第に態度を硬化してきた。
これまでは、たとえ問題ある態度をとる人間がいたとしても、過度にならない程度に敢えてセレンが教庁に来るようにしていた。そうすればセレンの後ろにミネルヴァの存在があるだけではなく、彼女が正当な職務ある人間だと示し、粗野にあしらわせないよう予防線も張れたのだ。しかしそろそろこの方策も危うくなってきたか。
その事実を改めて認めたとき、口の中が苦くなり、身の内で抑えようもなく不快感が増幅する。それは外側に向いた感情か、否か。
まだ迷いが残る思考を無為に巡らせていると、側近がぽつりと呟く。
「彼女の随伴が最善策かは、賭けですね」
「同じことを考えていた――が、安全策ではある」
随伴させれば、正式な修道士ですらないのに干渉しすぎだという声も囁きでは済まなくなるかもしれない。それでも、ここに置いていくより自分の目が届く範囲にいた方が外からの害が及ぶのを防げる。少なくとも心身両面においてセレンが傷つけられる危険は最小限に抑えられるはずだ。
そう思ったところで、不快感が痛みに変わる。
――自分さえ制御できれば、だな。
蓋をしようとしても、どうして記憶というのは立ち上ってくるのだろう。あの時と同じ夕暮れ時だからなのか。夕陽に色づいた白肌と銀の眼が否応なく浮かぶのは。
欲が出た。
触れずにはいられなかった――彼女の意識にある別の男の姿を消したくて、衝動的に。
心の平穏を奪うのは誰だというのだ。あんなことをしておいて、厚顔無恥にもほどがある。
仕事だと割り切ってしまえば感情を凍らせられる。他の人間にはそれで問題なく切り抜けてきたのだ。
枷をつけて、一線を越えずにいれば。
出張の仔細を綴っていた羽ペンの滑りが悪くなり、文字が掠れた。インク壺に一瞬浸して用紙を捲り、随行者一覧の末尾にペン先を走らせる。
鮮明な色で現れた名を一瞬だけ目に入れ、クルサートルはすぐに書類を傍へ押しやった。
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