枷と切望(二)

 絶対に叶わないと確信して、納得してしまった――セレンの笑顔に浮かぶ憂いはそう見えた。

 セレンが何を納得しているのか知らないが、フィロに、はいそうですか、と言う根拠はない。怖がっていたってそれだけでは駄目なのだ。

「そんなの伝えてみなければ分からないじゃないの。言わないといつまでも苦しいままなのよ?」

「フィロは」

 勢い込んだ反論に返ってくるのは穏やかな声音だった。

「自分がいることで大事な人が身動きの取れない状況になったら、どう思う?」

「それは」

 セレンが何を言おうとするのか思い当たる節がある。フィロの理解を読み取って、セレンは目を細めた。

「私もクルサートルが教庁でどういう立ち位置にいるかくらいは承知しているつもりだよ。御父上がいらした間はともかく、御両親がいなくなられた後はそう楽じゃない」

 セレンは膝の上にあった手の指を組んだ。

 総帥秘書官が世襲制なのは極秘事項の引継ぎがあるからだというが、若くして任に就いたクルサートルにかかる外圧は決して弱くない。さらに今まで見過ごされてきた教会内部の悪癖を正そうとするものだから、因習に守られて甘い汁を吸っていた人間からは煙たがられている。

 そんな目障りな教庁秘書官のそばに教区ケントロクスの血ではない捨て児がいるとあればどうだ。しかも他の孤児とは異なり、相貌が変わっている上に尋常でない記憶力は大人も舌を巻く。

 教区ケントロクスはすなわち、外界の俗に守られた地。そこに入り込んだ不純物――叩くのには丁度いい。

「力になりたいと思うからそうするけれど、足枷にはなりたくない」

 子供の頃はそこまで明からさまな態度を取られなくても、成長してくると何故変わるのだろう。いま教庁に入れてもらえるのも、仕事での付き合いだから許されているのだ。一線を越えたらその先は分からない。

「もし万が一応えてもらえたとしても、私に対して、皆がどう出るかな」

「そんなのクルサートルが……」

 守ってくれる——そう言おうとした舌を強く噛み、フィロは前のめりになった身を退いた。外野なら感情任せに騒げるだけのことだ。渦中にいたらどうだ。

「そんな簡単じゃ……ないわよね」

 軽はずみな発言に目を伏せると、微笑んだままのセレンが視界から外れる直前に瞼を閉じる。肯定を口にするのは時に自分の言葉ですら苦しい。

「クルサートルは優しいよ。私の気持ちは一方方向かもしれない。でももし、万が一に」

 淡々とした語りが呟きに変わる。吐息と間違えるほど微かに、応えてくれるなら、と。

「そうしたら……フィロが思う通り、最善を尽くしてくれると思う。でもケントロクスには色んな人がいる。必ずしも皆がフィロやミネルヴァ先生みたいではないから」

 教会学校や修道院はいわば守られた場所だ。市井の人々が残らず訪れる場であることとは矛盾しているようだが、俗世から一枚壁を隔てている。

 教庁は俗と聖の狭間に在る。そしてクルサートル本人はその境界で均衡をとらなければならない立場にある。

 総帥秘書官が両肩に載せる荷は重い。ケントロクス内外との折衝もある。自身の意思が押し通せる絶対的権力者ではないし、彼がそれを一番望んでいないこともセレンはよく承知している。

 いつも彼をなじっているフィロでさえ、クルサートルが自分で守っている律があるのには気づいている。もう少し身勝手になればセレンも幸せになるのにとすら思うくらいだ。しかし――

「セレンも望まないなら、そうね」

 頷くだけの短い同意だが、弱くはなかった。セレンのことだ。決めたら自分の我欲は捨てようとするだろうし、望む方が自身を苦しめてしまう。それにセレンばかりではない。

「あの馬鹿の性格なら、仕方ないわね。癪だけど」

 もっとぶち当たれと思っても、クルサートルが自ら守れると断言できない状況にセレンを引き込むはずがない。周囲の味方が限られている現状ならなおさらだ。

 フィロはセレンが自分を穏やかに眺めているのを歯痒く思いながら、気を鎮めようと重ねていた指を二、三度組み直した。

 商業も政治と似たようなもので、実力より年齢や場数が取引相手の出方を左右する場合も多い。だからクルサートルの状況もよく分かる。

 教庁内部でまだ若いクルサートルの立場が変わっていけば状況も好転するかもしれない。少なくともいまは時間が必要だ。フィロはまだ腹の中に沸々として鎮まりきらない感覚はあるものの、そう説明をつけて自身を納得させた。

「それで、仕事はまだやるの?」

「うん。前から続いている業務は終わっていないから。近々またケントロクス市外へ行く予定になっている」

 それを聞いて沸る感情がやや鎮静に向かう。会う機会が無くなったりしなければ可能性も消えない。沈んだ気分を続けさせても良くないと、フィロは話を切り替える。

「行ったことのないところだと旅行気分にもなれないかしら? 今度はどこなの? いつ出発?」

「まだ詳細は聞いていないんだけど、次は鉱山の方で。確か地図だと……」

「あ、ここうちの店が今度新しく商品の買い付けが決まりそうなところじゃない! ほら、この間セレンと一緒の時にあたしの彼が言ってた話で」

「ああ、お茶しに行った時の? 痴話喧嘩はもう済んだのか」

「やだあんなの喧嘩って言わないの。向こうが悪かったんだから喧嘩にもならないわ。それでね……」

 フィロの声が一変し、店に立つ時と同じ笑顔で楽しげに話し出した。この切り替えは客商売ゆえについた才覚か、生来のフィロの性格のおかげか。先ほどからずっと澱んでいた空気が途端に晴れていく。

 ――ごめん、フィロ。

 こんな謝罪はとても言えない。華やかな商品の説明に相槌を打ちながら、胸の内で良心が疼く。

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