第十三章 枷と切望

枷と切望(一)

「本当にごめん!」

 思い切り吸った息をぐっと止め、吐き出されると同時に大音声の謝罪が鼓膜に響く。言い切った後も拳も瞼もぎゅっと閉じたまま縮こまっているフィロを前に、セレンはどう返すべきかと言葉を探した。

「あの、私は怒ってないからとりあえず座ったら」

「だってセレンがこんなに帰ってこないなんてもうすごく悪い状況になっちゃったんじゃないかって」

「そんなことないから。ほら、見ての通り起きて動けるし」

 セレンは腰掛けていた布団から立ち上がり、くるりと回ってからぽすんと音を立てて元の位置におさまった。普段ならやりそうもないことをやってみせたので、まだ眉をへの字にしながらもわずかにフィロの相好が崩れる。

 フィロにカタピエとの関係や珠集めの話はできない。ミネルヴァが睡眠薬の件だけを話したので、出張先のセレンが薬のせいで体を壊したというていになったようだ。

「クルサートルが迎えに行ったでしょ。いきなり駆け出してくから何かと思ったけど、あれとちゃんと会えて良かったわよ」

「うん。まあ……そうだね」

 面と向かって話すとどうしても歯切れの悪い返事になる。なにせフィロの目つきに疑念があるのだ。

 薬が原因という形になれば、フィロが自責の念を感じるのは仕方ないが、曲がりなりにも日々駆け引きをしている商家の娘だ。表向きとは異なる事情を読み取るのにも長けている。心からの後悔と共に、出発前のセレンの相談が引っかかっているのだろう。

 セレンが薬を渡されていたのをクルサートルが知っていたとしても、それだけで夜中にケントロクスを飛び出すのはあまりに不自然だ。

 きっといま向けられている探るような視線も、本当は薬以外の事情があるに違いないと踏んでいる証拠である。

「まぁ、何はともあれクルサートルが少しは役に立ったならいいんだけど。それもあれのためでなくてセレンに良い方向で」

 言い方は辛辣だがクルサートル相手にはいつものことだ。彼はフィロにとっても幼馴染であるし、完全に嫌っているのではないのを知っているため、セレンも笑って聞き流せる。この調子だとまたクルサートルに対する批判が続くのだろう。

 だが予想に反し、フィロは真面目な顔に戻って俯きがちに「ねぇ」と呟いた。

「セレンはどうして、クルサートルに気持ちを言わないの?」

「気持ち……」

 どくんと鼓動が打つ。フィロが顔を上げ、逃げるように泳いだセレンの目を捕まえる。

「好きなんでしょう。どうして伝えないの」

「それは……」

 好きか嫌いか――どの類の「好き」か。まだ言葉にして表したことはない。自分だけの独り言でも。

 ただ、ここ最近の様々な出来事の中で次第に明瞭になりつつある感情は、否応なく意識される。

 カタピエ潜入を繰り返してメリーノと向き合った時に感じた恐怖。大公の豹変ぶりに対する戸惑い、そして、傍若無人で冷酷非情と呼ばれる彼に信じられないくらい優しく抱かれた夜。

 メリーノが寄せてくる想いは、正直すぎるくらい正直だ。だが強引に押し付けるのではなく、壊れ物を扱うような気遣いがセレンを包んだ。

 そのたびに、瞼の裏に浮かぶのは、そこにはない別の顔。

 芯のある強さと、表からは見えないけれど確かな優しさを秘めた、昔から知っている深く碧い瞳が。

「私の気持ちは」

 他にない策だったとはいえ触れた唇に残る気持ちの悪さは、けして薬だけが原因ではなかった。メリーノがどんな想いであろうと、彼に触れられた体は硬く冷え切って、拒絶と義務とがただひたすらに意志を殺す。

 それが馬に飛び乗ったあと、じわりと熱を取り戻していった感覚は、たったいまのことのように蘇る。だからこそ――

「クルサートルには、言えないよ」

「どうして!」

 パン、と膝を叩いてフィロが叫んだ。自分でも無意識だったのだろう。「ごめん」と一言、しかし勢いは止まらない。

「セレンはもう分かってるんでしょう、自分の気持ちが。分かってないって言われてもあたしには納得できない」

 いくら色恋方面に鈍いセレンでも、他者から寄せられる好意には無頓着であれ、自分の気持ちにまで盲目とは思えない。フィロから見ればセレンの想いは明らかだし、クルサートルだってセレンに対して見せる顔が他と違うのは長い付き合いだからよく分かる。それなら話は簡単だ。

「態度だけじゃはっきりしないことだってあるのよ。クルサートルが根は真面目だっていつも言っているのはセレンでしょう」

 クルサートルが行動に出ないで二人の仲が進まないなら、セレンから言えばいいのだ。なかなかそんな話題を口にしないセレンが面と向かって伝えれば、あの仕事はできるくせにこの件に関しては愚鈍でしょうもなく焦れるだけ拗れているあの木偶の坊な馬鹿秘書官もしかるべき態度に出られるはずだ。

 だからここは是非とも自分がセレンの背中を押さなければ。

「言っちゃいなさいよ。そりゃ勇気がいるだろうけれど、セレンが言えば」

 それでも親友は、背筋を伸ばしたまま首を振る。

「どうして……」

 作られた微笑みは柔らかなのに、なぜだかとても哀しそうに。

「私の想いは、きっとクルサートルを苦しめるから」

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