疼く恋情(四)
「ああセレン、起きていたのね」
そっと戸を開いたミネルヴァは、寝台に起き上がっているセレンを認めて朗らかに微笑んだ。入ってきた人物がクルサートルでなかったのにほっとしてセレンの肩の力が一気に抜ける。
ミネルヴァが呼びかけもせず入室するのはほぼ無いが、今日はきっとまだ寝ているだろうと気を遣ったのだろう。手には手拭いを載せた盆を持っていた。
「良かったわ。だいぶ顔色は良くなったみたい。寝ている時に少し熱っぽかったけれど」
言いながらミネルヴァはセレンの額に手を当て、「まだ少し熱いけれど、酷くはなさそうね」と述べるとほぅっと息を吐き出した。小さい頃にセレンがよく知恵熱で寝込んだときに熱を測ってくれた時も、こうしてミネルヴァの安堵した顔を間近に見たのを思い出す。しかし今日はその笑い皺の刻まれた目元に酷い
「ごめんなさい、先生。ひどく帰りが遅くなってしまって。頼まれた用事はちゃんと済ませましたが、学校の方は」
「問題ありませんよ。それにいまはそんなことを気にしないの」
寝台脇に置いてあった薄掛けをセレンの肩に掛けると、ミネルヴァはその上からセレンを静かに抱き締めた。
「無事に帰ってきてくれて感謝しますよ、セレン」
どこにいたのか、何をしていたのか、当然あるべき質問はない。ミネルヴァは腕の中のセレンの存在を確かめるように抱擁する。
「あなたのことだから、きっと自分が正しいと思ったことをしたのでしょう。あなたの信じたことならそれで良いわ。何もかも頼るだけの者に神は手を差し伸べてはくれないけれど、自ら努力して動くことが大事ですよ」
「先生、私は」
「悩みなさい、セレン。考えなさい」
自身の勝手な行動を詫びようとすると、ミネルヴァはそれを遮った。
「神に全てを委ねて得られるものは有りません。考えて、悩んで、正しいと思って行動したなら、自分を褒めてあげなさい。それからね」
ひと呼吸置くと、セレンの頬を包んで瞳をじっと見つめる。
「帰って来てくれてありがとう。あなたが無事にここにいてくれて、私は嬉しいわ」
もしかしたらクルサートルから経緯を聞いているのかもしれないが、何も尋ねずにただ受け入れてくれる。母代わりの老婦人の教えと気遣いが何よりセレンの心を軽くした。
捨てられた自分が居ても良い場所を無条件で与えてくれる。これ以上の幸福があるだろうか。
気持ちのまま礼を述べると、ミネルヴァは頷いてセレンから腕を離した。
「昨晩は先生にご挨拶もせずに寝てしまってすみません。いまは何時くらいなんです?」
室内は灯りを点けずとも十分に明るいが、窓掛けを引いたままでは朝なのか昼なのか分からない。普段なら鐘楼で鳴る時報で苦もなく知れるのだが。
窓掛けを開こうとしていたミネルヴァは、布にかけた手を止めた。
「もうお昼過ぎですよ」
「もう? そんなに私、寝てしまっていたのですか」
そうですよ、とミネルヴァは窓を開く。途端、新鮮な空気が室内に溜まっていた気を散らした。
「昨晩ここに着いたのも日付が変わっていたのだし、ずっと緊張してよほど疲れていたのでしょう。起きるのが遅くて当たり前です」
そうは言われても、夜明けが早い夏だろうと日の出後そう経たずに活動を始めるのが修道院の毎日である。セレンには信じられない起床時間だった。
もう今日の修道院の仕事はあらかた終わってしまうのだろうか。重ねて詫びると、ミネルヴァはセレンの元に戻って腰に手を当てる。
「セレンは頑張りすぎでいけませんね。少しは甘えてくれないと、年寄りは寂しいものですよ」
言葉と仕草は怒って見せているが、ミネルヴァはいつもと同じ笑顔を湛えて身を起こしたセレンの体を優しく寝台に押し戻した。
「今日はもう起き上がって仕事は禁止です。まだ本調子じゃないように見えるわ。無理に眠らなくていいけれど、体を休めていなさいね。いまの今まで、まるで薬でも飲んだみたいにぐっすり眠っていたのよ」
「薬……」
思い当たるところがあって、知らず知らずのうちに鸚鵡返しにセレンが呟くと、ミネルヴァは掛け布団をセレンの肩のところまで引き上げて頷いた。
「精神的にも参ってしまっていたんでしょうね。クルサートルもひどく気にかけていました」
「クルサートルが?」
心境が声に出ていたのだろうか。ミネルヴァは「おや」と目を開くと、すぐに困ったような呆れたような笑顔になる。
「あの子がずっとセレンについていたのよ。『先生は明日見ていてもらうから寝てください』なんて言ってね。少し熱があったと言ったでしょう。朝に仕事があるからと帰りましたけれど。不器用で困った子だけれど、セレンを心配していたのは本当なのよ」
こういう時に下手にクルサートルの非難も擁護もしないのがミネルヴァである。常に公平であり、判断を当事者たちに任せる。
落ち着いた師の態度は、セレンの心も平らかにするから不思議だ。
「少しお腹に入れた方が良いかもしれませんね。お粥なら食べられるかしら」
「あ、はい。大丈夫です」
「なら温めて来ますからね。少し待っていて」
かちゃりと取手の回る音が聞こえ、ミネルヴァの姿が扉の向こうに消える。セレンは枕に頭を落として敷き布を見つめた。視界もいつも通りはっきりしている。昨晩の異様な眠気は、少量でも舌に残った睡眠薬のせいに違いない。
――……恥ずかしい。
冴えた頭で記憶を辿ろうとして、セレンは耐えきれず布団に顔を
締まりのない顔をしていたのではないかと思うと再びやるせなさが膨れ上がってくる。
――寝惚けて醜態を晒していないといいのだけれど。
次に会ったとき呆れ顔を見ないで済むように、今は祈るしかない。
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