疼く恋情(三)

 窓枠を超えて入った鳥の鳴き声が、鈴の音のように軽く耳をくすぐる。寝返りを打てば瞼に強い光が当たって否応なく目が開いた。

 すぐ視界に入った敷布はここ数日かけてやっと慣れたきめ細やかな絹織りではない。目の粗くなった麻布だ。使い古して少し黄ばんだ布地がまっさらな絹より目に優しくて、セレンは目を細めた――メリーノの邸宅で身を横たえた布団は肌触りも寝心地も極上で、触れる皮膚も髪の毛一本すら傷つかないよう丁寧に織られたしつらえだった。それは軽く柔らかな羽根に守られているようであり、きっと誰しも快感を覚えるのだろう。

 しかしセレンには、現実とは隔絶された場所で自分が実体なくふわふわと浮いている感覚を与え、心がどんどん虚ろになっていきそうで逆に空恐ろしかった。

 ざらつく布の質感は懐かしく、冬は摩擦に悩まされると知っていてもよほど現実味がある。薄い上掛けから腕を出して身を起こすと、日除の布を透かして色褪せた壁におぼろな光が柔らかく当たっていた。息を吸い込むと幼い頃から目覚めに伴っていた木の匂いが肺まで入ってくる。

 修道院に帰ってきたのだ。 

 今になって初めて信じられる。昨日のことは夢ではないのだと。



 ***


 

 カタピエ公国領主邸からどれくらい走っていたのか、騎乗して逃走した次にセレンの記憶にあるのは、馬車の中だった。正確には薄暗く風も感じない閉鎖空間で揺られて眠りが一時妨げられ、耳横でクルサートルに「馬車だ」と告げられてそう認識しただけなのだが。セレンと馬で二人乗りでは検問を超えられない。大方、教庁から手回しをして他国不干渉のセントポスとの通信だと装ったのだろう。

 硬い馬車の背もたれではない何かが自分の体をしっかりと支えている。その温もりが心地よく、規則的な振動も手伝ったのか、常にない睡魔に抗えず、セレンは再び現実と夢の狭間に入っていくのをぼんやりと自覚した。

 ——その後、どうやって自室ここに……

 いつもの自分の部屋で目覚めたのは無事帰ってきたという動かぬ証拠なのだが、ケントロクスに入ったことすら覚えていない。着ているのは領主邸から出てきた時のままの服だが、修道院に着いてもそのまま眠り続けていたのか。しかし馬に乗ってからこのかた自分で歩いた覚えもない。

 朝の気に触れて寒気を感じ、一度はいだ掛け布団を再び肩まで手繰り寄せる。判然としない部分が出るとどうにも落ち着かない。朧げながら何か残っていないかと頭の隅まで探してみる。ミネルヴァ先生に挨拶もなしに寝てしまったのか。

 常に気が張っていた領主邸ではありえなかった深い眠りに落ちていたのは確実だが、それでも途切れ途切れに夢を見ていたと思う。何の夢だったか。確かクルサートルが……

 そこまで思い至り、はた、とセレンは顔を上げた。

 掴めそうなところまで浮かび上がってきた夢の像が急に鮮明な形を取る。

 もしかしてあれはうつつの出来事だったのか。

 温かくて夢の中だと思った。穏やかな明かりを感じて意識が深い眠りから浮上した。地に足がついておらず、それでも体には安定感があるので不思議に思って目を開けたら、クルサートルの顔がすぐそこにあった。セレンが見ているのに気がつくと微笑んで口を動かしたが、何を言ったのか良く聞こえない。

 少年の頃のクルサートルと同じ優しい笑顔だった。最近はあまり見せたことがなかった柔らかい微笑。

 だから夢だと思ったのだ――まさか、現実だなんて誰が思うというのだ。

 そこまで気づいた途端、寒気が跡形もなく消え失せ、代わりに夢現ゆめうつつの中で経験した感覚が蘇り全身に熱が走る。

 クルサートルの顔が間近でこちらを見下ろしていた、ということは。

 意味することは一つしか考えられない。

 見えない力によって宙に浮いていたのではなく、クルサートルに抱きかかえられて寝台まで運ばれたということになる。ただでさえメリーノの屋敷から救助される迷惑をかけたのに、そのうえ無防備に寝惚けてそのまま甘え切ってしまったのか。

 ――自分の力で生きられるように武術の稽古も受けたはずなのに……このざまとはなんて恥だろう。

 敢えて胸中で言葉を紡ぐ。そうしないと耐えられなかった。

 だが自責する間にも体はどんどん熱くなっていく。ふと視線を真下に落とすと、あまり自信のない胸を一応は隠した布地のすぐ上に、普段は目にしない白肌が見えた。

 セレンは三度みたび布団をさらに上まで引き上げた。叱咤の言葉で覆おうとした別の感情が、隠しきれずに込み上げる。

 今の自分のなりを見たくない。馬上も馬車の中も薄闇の中だったから良かった。自分だって相手が鮮明に見えたわけではない。それが、部屋の灯りの下となれば話が別だ。

 こんな、異性におもねるような露出度の高い格好をクルサートルに見られたなんて耐え難い。

 屋敷内ですら着心地の違和感と人の目が落ち着かなかったのに。しかもクルサートルが嫌悪露わに罵った格好である。そのうえ明るい照明でよく見える中、鎖骨どころか胸の際どいところまで肌の露わになった服で抱き運ばれたなど、考えるだけで目を覆いたくなる。

 ――そんなことにまで気が回らなかったなんて……

 羞恥心が全身を駆け巡り、常に眠りの浅いはずの自分にはあり得ない状況に、なんでこんな時に限って、と思考が脳の許容量を超えそうで布団に顔を埋めるほかない。せめて平常心が戻るまで誰も来ないで欲しい。いつそんな時が来るのかさえ分からないが。

 だが、そのささやかな望みはあっさり絶たれた。

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