疼く恋情(二)

 屋敷が背後に離れる。周りの闇は深くなり、耳の横を抜ける風と蹄の音、そして馬を御してやや速くなった息遣いが間近に聞こえる。

「見たところ、怪我は無さそうだな」

 囁きの中に紛れる僅かな不安と、安堵。それが分かったら、胸の内で冷えて固くなっていたものがふっとほぐれた。

「うん。大丈夫」

 面と向かって言葉を交わすのがあれほど怖いと思っていたはずなのに、するりと感謝が口から出る。灯火が後ろに去って視界が暗いおかげだろうか。

「クルサートルはどうやってカタピエに」

「ケントロクス総帥直属秘書官の肩書きは捨てたものじゃないな」

「私の失踪と関連づけられは」

「甘く見るなよ。教庁の役人も使って根回しはしてある」

 クルサートルがそう言うなら疑いが出ない策を取ってあると信じられる。ましてやカタピエはセントポスを囲むのだから教会中枢のケントロクスからいつ教庁の役人が来ようと文句も言えまい。

 一番の懸念が払拭されると、どちらも口を開じた。セレンが恐れていた沈黙とは違う。相手との間にあるのは前と同じ空気で、そのことに何より安心する。

 市街と城の間を繋ぐ緑道を抜けながら、再びおもむろにクルサートルが呟く。

「それにしても酷い格好だな」

「ああ、これか」

 馬の背に飛び乗ったとき、破いた布はさらに形を崩していた。クルサートルの前に騎乗したセレンには見えないが、呆れ顔が想像される。

「動きにくくて破くよりほか無かったんだ」

「そうじゃない」

 否定する割には今度こそ露骨に呆れている。

「なんでまたそんなしつらえの服なんだ」

「私の趣味ではないよ」

「そんなことは分かっている」

 ぴしゃりと断言したあと、「そんな服を着せられるとは」と舌打ちする。在らぬ対象に苛立っているのは明らかだが、セレンにしてみれば不可抗力である。

「そう言われても用意されたのがこれなだけで。私も辟易しているんだ。せめて袖があれば」

 そういう間にも広い開口部から胸元に風が入って身体が震えた。いくら暖かくなった季節とはいえ日が落ちれば冷える。貴族が夜会で着るような代物では肌が露わになりすぎて、全速力で走る馬上にいるのは耐え難い。

 曝け出された地肌に夜気が当たって鳥肌が立ち、セレンは堪らず肩を擦った。

 そこにクルサートルの視線を感じる。どうにもやりきれない気分になり、必要な理由もないのに弁明してしまう。

「でも私には似合わないし駄目にしてしまったけど、布地はいい。うまく繕えばミネルヴァ先生の肩掛けか女の子たちの髪飾りにでも」

「燃やして捨てろ」

 忌々しそうな文句でセレンの提案は遮られた。せっかく上質な布があるのに捨てる発想はセレンには無い。衛士もクルサートルも勿体無いことを言う。

「――あの馬鹿からのモノをいま着てるだけでも……」

「え? 悪い、風で」

 聞こえない、と問い直そうとしたところに突如、地肌を叩いていた風の圧が消えた。代わりに温かな触感が身を包む。

 クルサートルの上着だった。

 良いのか、と振り返るが、クルサートルは前を見据えたまま「羽織っていろ」と顎で示す。

「検問で誤魔化すのにどうせ必要だ」

 ぶっきらぼうに聞こえるが、向かい風を受けてクルサートル自身もきつくないはずはない。セレンが気にしないで済むようにしているのは明らかだ。

「悪い。甘えさせてもらう」

 正直なところセレンの意識も限界に近かった。昨晩、今日の計画を練ってろくに寝ていなかったせいか。普段なら考えられないが、セレンの意思とは裏腹に瞼が落ちてくる。

「だいぶ顔色も悪い。まだしばらくかかるから」

 そう言うと、クルサートルはセレンが落馬しないよう腕をずらした。

 甘えるつもりはないはずなのに、ぎりぎりまで張っていた糸が切れたように、力が勝手に抜けてしまう。

「ごめん……」

「いいから、もう休め」

 その言葉を待つ間もなく、セレンは知らずのうちにクルサートルにもたれかかっていた。

 つい先ほど、メリーノの腕の中にいたときはどう言い聞かせても冷たく固まっていた体が、いまは逆に熱を取り戻してほぐれていく。抱き止めた腕は確かで、長らく忘れていた安心感がじんわりと全身に思い出される。

 蹄の律動が心地よい。ただ、それももう次第に耳から遠ざかっていくのをぼんやり聞きながら、セレンの意識は安らかに閉じていった。

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