第四部 愛慕と傷心
第十一章 疼く恋情
疼く恋情(一)
カタピエ領主邸は屋敷だけが広いのではない。塀を一つ飛び越えただけでは敷地内を抜け出せず、外側にはさらに広い園庭がぐるりと敷地の外縁を成している。
石の敷かれた通路は屋敷の灯火に照らされ、上階から見下ろすと誰がどこを通るか目で追うのもたやすい。舗石を外れて並び立つ木々に身を寄せると爪先と踝に痛みが走った。唇を噛んで痛覚をやり過ごし、崩れそうになった体勢を整える。ただでさえ慣れない踵の高い靴で土剥き出しの地面を走るのは避けたいが、裸足よりましだ。
薄闇の中、塀や樹木の向こうにひときわ明るい円が点々と浮かんでいる。夜の園庭を楽しむために立てられた灯りと敷地内にいくつもある門の灯だ。衛士に扮して侵入した時に門の位置と時間ごとの衛兵の配置も頭に入れていたし、さらに今回の逗留でほぼ完璧に把握した。日が落ちた後なら通用門の多い西側が手薄になる。
頭の中に描いた地図をもとに現在の場所を割り出し、光を避けながら散策用の蛇行路に沿って目的の箇所を目指す。迷うことなく着くはずだ。屋敷内の臣下が逃亡に気づく前に敷地を出たい。
地上を照らす月を一瞥し、セレンは加速しようと踏み込んだ。
「っつ……」
思わぬところから身体が引かれ、あわやよろけそうになって否応なく踏みとどまる。それと同時に鋭い刺激に襲われたまらず舌打ちした。痛みが走った箇所に目を遣れば、予想した通り衣の右の裾が植え込みの枝に引っ掛かっている。乱雑に作った結び目が駆けているうちにほどけてしまっていたらしい。
枝から布を外すと、引っ掛かった箇所の繊維が崩れて目が粗くなっている。
――引き裂いてしまえ、か。
衛士の一言を反芻しながら息を止め、両の手にぐっと力を入れた。尖った枝先が作った線に沿って上質な布がビリ、と鈍い音を立てて裂かれる。正直もったいない、とは思う。しかし足を取られて捕まっては仕方がない。未練を追い払うように掴んだところをさらに勢いよく、膝が露わになるまで引っ張る。二つに分かれた布を右腿の位置で手早く固結びすると、セレンは再び走り出した。
――あなたは自分が信じたことを行いなさい。
幾度となく繰り返されたミネルヴァの言葉は、いつ
ケントロクスから出る直前のことを思い返せばまだ息が詰まりそうになる。唇を噛んで痛みを拡散しようとしても、物理的な刺激で胸の痛みは和らいでくれない。
それでも、アンスル全土の安寧を賭して目指した先はセレン個人の感情で崩れていいはずがない。
首元に手をやり、そこにある硬い感触を確かめる。幼い頃から肌身離さず付けていた首飾りは幸い奪われずにあった。
御守りのようにセレンと共にあったこの飾りと、幼馴染が重なる。
自分だけに関わる想いは伝わらなくてもいい。叶わなくても、消えてくれないなら秘めておくだけでいい。だがクルサートルも同じ安寧を願っているなら、セレンにはやるべき仕事がある。
もし万が一にメリーノが本心からセレンを気遣ってくれているなら、セレンと似た苦しみを彼に味わわせることになるのかもしれない。人として道理に反する行いだと思うと、わずかに良心が疼く気もしなくはない。
だが手中にある文書や衛士の言葉から推される通り、カタピエが覇権を諦めていないのであれば多少の代償は向こうの業として受けてもらわなければ。
布がまとわりついていた足が自由になれば身も軽くなる。つい数秒前に過ぎた柱を境に塀の石組みも変わった。そこから判断すると目指していた地点はもうすぐそこだ。背後に流れていく灯りの数は、あと三つ……二つ……一つ。
影になった煉瓦の窪みに足をかけ、セレンは宙空に跳び上がった。伸ばした手が塀の上辺を掴み、そこを支点に身を翻す。
――あとは……
とすん、と軽い音とともに爪先に圧がかかった。そのまま体重をかけ、敢えて抵抗を増して前に転倒するのを防ぐ。上体が安定するや左右を見回し見張りがいないのを確認すると、早く敷地を離れるべく市街へ向かう道の方へ体を起こした。
しかし駆け出す弾みをつけようとした時である。さざめきに似た虫の声の間に異音を捉えた。固く律動的なこの音は蹄に間違いない。遠くの道か。いや違う。蹄鉄の響きは明らかにこちらに近づいている。速い。セレンの早駆けと並ぶか、それ以上か。
暗闇の中で見えない相手に進退を阻まれ必死で思考を巡らす。剣は無いのだ。身を隠すに足る樹木も柱も塀の向こうで、この白い装束では夜闇に紛れるのも不可能だ。
――騎馬相手には……
首飾りを握り締め息を詰める。もう片方の手が紅の珠を失った耳たぶに触れ、意志の強いあの深い碧の瞳が脳裏に浮かぶ。
――ここで捕まるわけには。
四肢の隅まで意識が行き渡る。馬の気配はもう近い。あと数秒か、それとも。
見据えた視線の先で雲間から月光が降りた。その中に刹那、鹿毛の姿が瞬きのごとく通り抜ける。
胸が大きく脈打つ。
「セレン!」
差し出された手を掴み、セレンは力強く地を蹴った。
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