熱と代償(七)
夜の帳が降りれば、広大な宮廷の廊は静寂に包まれる。ことに主人の居室がある棟とあればごく限られた臣下しか訪れるのを許されていない。
先頃主人に命じられた水差しを届けるため伝えられた部屋へと急いでいた侍女は、暗い回廊の向こうに見慣れた羽織の背をみとめ、ふと足を止めた。
いまだかつて自分の
足音を床に高く響かせもせず、後ろ姿からすら滲み出ていた威丈高な雰囲気も消えている。以前なら常に苛立ち臣下皆に伝わる緊張感を漂わせて邸内を闊歩していたというのに。
少し前から宮廷に住まわせた娘が、冷徹と恐れらせた公爵をこんなにも変えるとは。
まるで別人のごとく落ち着いて颯爽と歩いていく主人を見るだけで、胸の内が明かりを灯したように温かくなる。侍女は感謝の思いでその
だが光の漏れる部屋の戸を開け、侍女は絶句した。
寝台の上では、今しがた見たはずの主人が深い眠りに落ちている——その安らかな寝顔は、まるで神の祝福を受けた者のように、窓から射し込む月明かりに白く照らし出されていた。
***
館から外庭に出てきた人物は、
走りながら桜色の唇を乱暴に拭い、舌を強く噛む。舌の上にわずかに残った糖衣のかけらはいやに主張が強く、甘ったるくて気持ち悪い。
「あの
苦々しく呟くと懐に手を当て、紙の感触を確かめる——カタピエ公国の他国外遊に関する機密文書。
——これまで目的遂行なら手段を選ばなかったのが歴代のカタピエだ。女遊びをやめただけで、芯から変わるはずもない。
耳の横を吹き抜ける風は、芽生え始めた若葉の香りがする。肺いっぱいに吸うと、やっと息ができた気がした。
星屑が散りばめられた空には、満月に満たない月。
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