疼く恋情(五)
闇が永遠に続くのではと背筋が凍った。
カタピエに駆け込んでから単身、馬を走らせる夜の道がどれほど長く感じたことか。
自分の身が暗闇に飲まれていく感覚だったのかもしれない。
強国君主邸に乗り込んだ後、邸内での立ち回りもろくに考えず衝動的に動いていた。見つけたあとの手筈を整えたのはいいが、もし見つからなかったら。
見つかっても、もし――共に帰ることを、拒まれたら。
あの時の自分にここまで考える余裕があったわけではない。ただケントロクスに戻ってきたいま遡及してみれば、蒙昧とした不安の正体はこれだったのではないか。騎馬で息があがって呼吸が苦しいのか、恐怖で高鳴る鼓動のせいなのかも区別がつかなかった。ただ一つ確かなのは、頭の中で繰り返される強い拒絶。
――嫌だ。
――やめてくれ……それだけは。
最悪の可能性に訴え続ける。嫌だ、と。
だがいくら繰り返しても消えず、負の感情が己を押し潰そうとする。足掻いても拒んでも襲い続ける。
心臓が潰れそうな思いで屋敷の外壁のところまで走り出た。
暗闇に突如月光が射したのかと思った。夜闇の中に躍り出た真白の姿。終わりが来ないと絶望しかけた闇に、光が立ち現れたかと。
「馬鹿だな」
憔悴しきったセレンを抱えて走りながら安心するとは、我ながら身勝手だ。追い詰めておいて自分が救ったわけでもない。逆だ。救われたのは自分の方だ。
不意に指先が圧を感じ、クルサートルは布団に押し当てていた顔を上げた。目をやると、軽く触れていたセレンの手が自分の指を握っている。
「……やめて……」
はっとして視線を走らせると、セレンの寝顔が苦痛に歪み、痛みを受けたように身を捩った。
「待って……いやだ……」
記憶にある訴え。初めて聞いたのは幼い頃、ケントロクスにセレンがやってきたその日だ。
身元の知れない少女は目を閉じて眠り続けているのに、たびたびうなされては喘いだ。その度に絞り出すような声で訴えていた――やめて、待って、と。
「セレン」
セレンの手を両手で包み、呼びかける。
「大丈夫だから」
歯を食いしばって何かに耐えていた顔が呼びかけに応じて和らぐ。まだ名前を知らなかったあの時も、ミネルヴァと二人、一日中そばについて今と同じことを繰り返した。
思い出すだけで胸の奥が
同時に、自身を嘲る言葉が浮かぶ。
いまの自分にはたしてそう憤る資格があるのだろうか。何の力もないのに、ただ単純に大丈夫だと励ました子供の頃の自分の方が、よほどましだったのではないか。
「セレン」
言葉が続かない。
慰めも詫びも、言う権利があるのか。
胸の内に形なく留まる塊は後悔なのか、自らへの怒りなのか、それとも。
いまは元の通り整った寝息を立てている安らかな顔を眺めていると、安堵と葛藤が同時に襲ってくる。クルサートルは上げた面を再び落とした。すると遮断された視覚に替わり、耳が呼び声を聞く。
「クルサートル、教庁から迎えが来ていますよ。どうします」
――またか。
教庁の秘書官が夜にケントロクスを抜けて何の騒ぎだと問いたいのだろう。しきたりや礼の形式だけ重んじる者たちの考えることなど知れている。
「でも、もしあなたがそうしたいなら少し待ってもらうよう言いましょうか?」
ミネルヴァはいつでも人の胸中を見抜く。しかしクルサートルは礼だけ述べて辞退し、椅子から立ち上がった。ミネルヴァの気遣いはありがたいが、気を遣わせることがやるせない。
「行きます。はなからこちらに決定権など無いですから」
触れたままにしていたセレンの手をもう一度強く握り直してから、クルサートルは寝台を離れた。
指先が離れた瞬間に、消えた温もりがもう愛しくなる。悪夢から逃してやりながら、自分の方が安堵している。離したくないのに――留まればますます望みの実現は遠くなる。
「あちらを片付けてすぐに戻ります。先生、すみませんがセレンのそばに」
欲を断ち切ろうと、寝台を振り返ることなくミネルヴァの脇を抜ける。
「クルサートル、あなたが何を考えているのかきっと私は全て分かっているのではないけれど」
背中にかけられた声には叱咤も哀れみもない。
「誰かを思う心が憎しみや怒りに負けてはあなたが不憫です。あなたが、あなた自身を苦しませることはないのですよ」
慈しみに苦い
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