第十章 熱と代償

熱と代償(一)

 ――私は何をやっているのか……

 硝子に当てた手指の間に見慣れぬ自分の姿が映ったのが見え、たちまち手のひらで像を擦る。外を見ようとしたがその気も失せて、セレンは窓から離れて寝台に乱暴に腰を落とした。柔らかな綿入りの布団が身を受け止めて軽く沈み、布に移された花の香りがふわりと立ち昇る。

 意識を失ったあの日、次に気がついたとき目に入った風景には覚えがあった。それも一回見ただけという曖昧な記憶ではない。細心の注意を払って隅まで調べ、けして迷うまいと自ら脳に焼き付けた。

 カタピエ公国首都、大公メリーノの館だった。



 力技で眠らされた割には、身体には傷も痛みもなければ、頭が朦朧とするわけでもない。むしろ久しぶりにちゃんと寝たせいか、ケントロクスにいた時の疲労感はやや薄れていた。

 覚醒して反射的に首元に手をやる。慣れた感触があり首飾りが手のひらの中に収まった。

 だが常に携えていた短剣が無い。奪われたか。咄嗟に飛び起きて誰かいないかと視線を走らせる。しかし人の姿が室内にないばかりか扉の外に誰の気配も感じなかった。捕えた人間に対する態勢としては異常だ。

 それに加えてセレンの扱いもおかしい。身を横たえていたのは牢でも物置でもなければ、雑用係に与えられる類の簡素な寝床でもない。館の主人が寝てもおかしくない豪奢な寝台であり、しかもそれが置かれているのはどんな賓客を迎え入れても文句のつけようがない美しく整えられた居室だった。

 一体、何が起こっているのか。

 わけが分からず、寝台に起き上がったまま次の行動に躊躇する。

 すると、戸を叩く音が響いた。

「失礼する」

 扉の向こうの声に、ぞわりと悪寒が走る。以前にこの声音を耳にした時に感じた肌をひたと撫でるあのおぞましさ。きゅっと喉が縮まり鼓動が速まった。迎撃の姿勢をしようにも身が固まって自由を奪われる。

 金縛りにあったまま、扉を睨みつけることしかできない。

 だが、不可思議にも覚悟した恐怖はそこまでで終わった。

 取手はまるで錆びついているかのようにぎくしゃくと動かされ、開いた扉の隙間から掛けられた言葉がセレンの耳を疑わせる。

「気分の悪いところは無いか」

 現れた館の主人は、前にこの邸で対面した時の人物と同一とは思えなかった。

 ご丁寧にも入室の伺いを立ててから室内に入り、最初の言葉がこれだ。面食らってただ首を振ると、心底ほっとしたような柔らかな表情を見せる。

「私の臣下が手荒な真似をしてすまなかった。傷が残っていなかったようで良かったが……」

「この……服は?」

 アナトラの時の彼と同じだ。声だけ聞いたときに瞬間的に蘇った体のこわばりと恐れが萎えていくのを覚えながら、警戒だけはそのままに対応を選ぶ。

 真正直に剣を返せと言ったらさすがに立場が不利になる。だが相手のこの妙な態度の真意を探らねばならない。セレンは剣の在処の代わりに明らかにおかしい点を問うた。

 セレンが身に纏っていたのは着古した旅用の修道女服ではなく、上質な絽の寝巻きだった。無地ではあるが裾や襟口に光沢のある糸で細やかな刺繍が施された、若い令嬢に好まれるしつらえである。

「あぁそれは……いや、誤解を、しないで欲しい」

 着ている衣をじっとセレンが見つめていると、メリーノが慌てた様子で弁明した。

「私じゃない。いや! 用意させたのは私だが、そうではなくて。着替えは侍女が。私は手を貸しても見てもいない。ちゃんと別室にいたから」

 慌てる様子がますます邸で見た人物とは別人である。

「あの、つまり、だな。貴女の着ていた服は洗濯の必要があったし、眠りづらいだろうと思い……」

 そして決まり悪そうに指差された先には小卓があり、セレンの鞄と畳まれた服があった。咄嗟に鞄の中に何か見られてまずいものがあったかと懸念が生じる。中身を検分されたかとメリーノを斜めに見上げると、「中を触ってはいない」とこれまた即座に否定される。

「まだだるいようなら具合が良くなるまで休むといいし……必要なものがあれば持たせる。食事はそろそろ来ると思うが、消化に良さそうなものを用意させた」

 セレンに近寄ろうとするでもなく、扉の位置から動かずにメリーノは続けた。以前、こちらを眺め回した時の威圧感は無く、逆にセレンと真正面から向き合うのを避けるかのように顔が斜め下に向いている。

「その……なんだ」

 まだ何も返答できずにいると、決まり悪そうに切り出す。

「城の者たちにはなるべく貴女の意に沿うようにと伝えてある。もしここを出たければ、それも止めない」

 最後の方は呟きに近くなったが、はっきりと聞こえた。

 いま、何と言ったか?

「ただ、私としては貴女にしばらく居てもらいたいと思っている。これまでの非礼は詫びきれないかもしれないが……客人として迎え、話をしたいと、そう」

 思っている、と初めて顔を上げ、セレンを直視したメリーノの瞳に偽りは感じ取れなかった。その真摯な眼差しのまま、大公は続けた。

「たまにこの部屋に訪れるのを許してくれれば嬉しい。ひどく疲れていたようだから、まずは静養して十分元気になってほしい」

 そうして取っ手に手を掛けると、メリーノは再びセレンの視線から顔を逸らし「必要なものがあればいつでも呼び鈴を」と述べて出ていった。

 まだ冴えない頭で見聞きした出来事は、セレンにはまるで夢の中かとすら思えた。



 ――でも夢ではなかったのだよな。

 窓辺に鳥が止まってセレンを見上げる。撫でるように硝子に指を滑らすと、気持ち良さげに羽根を羽ばたかせてから飛び立っていった。悠々と街の方へ向かっていく影を見送りながら、望めばそうできるのになぜか羨む自分がいる。

 あの日以来、セレンはメリーノの屋敷から出ていない。

 メリーノの言葉に嘘は無かった。食事や身の世話に来る侍女はこぞって必要なものや欲しいものは無いかと聞いてきたし、試みに本や筆記具を頼めばすぐに揃えられた。供される食事や衣服は客人用のそれで、しかも賓客並みの上物である。荷物も自分で確かめてみたが財布の中身も旅用の簡単な小物も揃っていた。

 メリーノも遠慮がちながらたびたび訪れた。ただ交わす会話は短い。セレンが警戒心からほとんど話さなかったのもあるだろうが、そもそもメリーノが最初と同じようにセレンの希望や体調を聞き、当たり障りのないことだけ言って去ってしまうのだった。

 自信なさげな様はこれまでのメリーノからすると意外過ぎて何を考えているのか分からない。確かなのは、セレンに対してとにかく優しいということだった。それも上辺だけの偽りでは無く。

 ――貴女の拒むことはしたくはない。

 繰り返しそう述べて寄り添おうという様子を見せた。いや、様子ではなく、実際にそうだと分かった。

 部屋に鍵をかけて監禁されるでもない。かと言って無言で入ってくるわけでもない。文字通りどこへ行こうとセレンの意のままだ。極めて奇妙な待遇で、監視の目があるよりも違和感が否めない。

 理性では帰らねば、と分かっている。カタピエ近隣の教会自治区へはミネルヴァの遣いで出かけてきただけだ。学校の行事も近いし、セレンの手伝いがあった方が良いだろう。

 だが心が追いつかない。あの碧の目と、低い声を思い出すと。

 ――優しさが欲しいなら別を当たれ。

 あの声が蘇るたび、足が竦む。

 耳たぶに小さな珠の感覚はない。失くすのが怖くて耳飾りをケントロクスに置いてきてしまったが、まるで贈り主本人との繋がりが断たれてしまったようで、喪失感に食い潰されそうだ。

 なぜクルサートルがあそこまで頑なな拒絶を示したのか理解ができない。考えても考えてもわからない。だが本来彼は優しいはずだ。その彼があんな激しさを見せるなんて。

 あり得るとしたら。

 ――本心がでちゃったんじゃない。

 自分だけで悩んでいた時には気づけなかったが、フィロの意見を聞いたらばらばらだった金具がひとつ、引っかかった気がした。身元の分からないセレンを憐れむ気遣いから、仕事外での関わりを拒む気持ちをずっと表に出さずにいたのだとしたら、あり得る話だ。

 剥き出しにされた冷たい嫌悪感と、いま我が身に与えられているメリーノの正直な温かさがセレンの中で混ざり合う。

「やはり私は、捨てられるだけの性格なのかな」

 子供の頃に感じた孤独が再び襲いかかる。自分の中にいる子供の自分が寄りかかる存在を求めているようで、セレンは窓硝子に体を寄せた。あの鳥みたいに飛んでいけたら楽だろうか。空高く居れば、風に行き先を委ねても許されるだろうか。

 歩ける足があるはずなのに、どこかに続いている地上の道を選んで行かなくてはいけないのは、とてつもなく難しく見える。

 そうしてしばらく目を瞑っていると、不意に戸を叩く音が耳に入った。

「ちょっと失礼するわね」

 答える前に落ち着いた声がする。振り向くと、開いた扉の前に一人の女性が立っていた。

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