熱と代償(二)
この屋敷には異質な女だった。
メリーノ公一人しか主を持たないはずの邸宅にいて、女には臣下という言葉が全く似合わない。侍女のお仕着せではなく良質な流行りの衣に身を包んでいるというのもあるが、それを抜いてもまず他に従いそうもない態度がそう思わせた。だが客人というのも何か違う。
あたかもこの屋敷は我が物と言いそうな悠然たる雰囲気を纏っていた。
「うん、聞いていた通りの綺麗なお顔をしているね。単に顔がいいだけの馬鹿ならどうしようか思ったけど、あんたは眼がいい」
自分の方こそ相対した者が目を見張るような外見をしていながら、女は満足げにセレンを論評する。
「失礼ですが、あなたは?」
「ああ、あまり気にしないで。あれの身内の誰かとでも思ってちょうだい」
女は手を軽く振って流した。おどおどとしたメリーノとは全く似つかず、傲慢さを漂わせた以前のメリーノにもない心持ちの軽さを感じさせる。ただ、言われて顔をよく見てみれば彼に類する目鼻立ちのはっきりした美人である。
どう返事をするべきかセレンが決めかねていると、女は遠慮のかけらもなく椅子に腰を落として続けた。
「しかしこれは魅入っても仕方がないわ。本当にいい眼をしている。月色の瞳、ね。珍しい。どこの地方の出か聞いてもいいかしら」
「それは……私にも分からない」
こちらを興味津々に上から下まで検分しているあたりから、少なくとも礼節を尽くすべき相手ではないと踏む。必要最低限の会話か、情報を引き出すかのどちらかだ。雰囲気からしてこの女で後者は難しいだろうが。
思った通り、警戒を隠さず女を直視してもますます興味深いと笑みを濃くするだけである。
「へぇ。それならあの子が妻に迎え入れても特に問題はなさそうね」
ここで出自不明という事情がカタピエに輿入れする理由になるなどセレンには信じがたい。身内ならただでさえ相手の血筋を気にする家が多いのに、女が口にしたのは狂言ではないか。
「カタピエは他を力で圧してアンスル全土を掌握しようと狙っているように見えた。どこの誰とも分からない私を娶って利があるとは思えない」
「おや、あの子はもとより平和主義さ。そうでなきゃどうして娘を囲おうなんてするかねぇ。まぁ確かに女遊びに全く関心がないなんていうならやらないだろうけど、武力制圧なんてやらずに他の方法が取れるなら——っと喋りすぎたようだ」
シャラリと女の腕にある珠を連ねた細い腕輪が音を立てる。口元に当てられた長い指の上で真紅の宝玉が怪しい光を放った。セレンと言葉を交わしているものの、話されている内容が自分の質問の答えになっていると到底思えなくて会話をしている気分にならない。
第一、話が違う。歴代のカタピエが武力行使をも辞さない姿勢であり、公女を取引道具としていたときも大国の兵がすぐにも動けるよう後ろに控えていると、諸国が口を揃えて囁いていたのである。
考えても疑問が解けない頭の中がそのまま顔に出ていたのか、女はセレンの顔をまじまじと見ながら含みのある笑いを浮かべる。それでもなおセレンが沈黙したまま女を見返していると、紅を引いた唇が笑いの形のまま動いた。
「澄んでいていい目ね。とても強いのに嫌な強さじゃない。私も好みだわ。あの子が虜になるのも理解できるわ」
「私がメリーノにとって何の価値がある。手元においておきたがる理由が分からない」
すると女は声を立てて笑った。
「本気でそう思うのかな? 頭は良さそうなのにそっち方面には随分疎いとみた」
淑女らしからず口を覆いもしないでひとしきり面白がると、女は捩っていた身をようやく立て直してセレンを斜めに見やる。
「あれだって人間だからね。仕事と恋愛は別物だ。政治的にモノを考えるのと抑えが効かない想いは違う」
「別物?」
あの冷酷非情と名高いメリーノが、と一瞬不思議に思うが、言われてみれば様子がおかしいと思うのはアナトラ以来セレンがメリーノと相対する時だけである。ケントロクス教庁が集めた情報に照らすと、外交の場におけるカタピエ公の辣腕は弱体化の兆しも見せない。
セレンを自邸に入れた後も、遊び人という風聞が疑わしいくらい日中は仕事に専念しているようである。
思考を巡らすセレンを女はなおもじっくり眺めていたが、差し当たり満足したのか立ち上がった。
「もしお嬢さんも人を好きになったことがあるなら想像してみるといいよ。本気になるほど自分が駄目になった覚えはないかい」
「駄目に……」
鸚鵡返しにセレンが呟くと、「あらま」と女は目をしばたたいた。
「覚えがあるって顔だねぇ。その様子じゃあの子の失恋かな。これは可哀想だ」
言葉と裏腹にちっとも憐れんだ風もなく興を滲ませる。
重い鐘の音が響き始めた。時報だ。ちらと頭上を見上げた女は優雅に衣の裾を翻す。
「それじゃ、あたしはそろそろ失礼するわ。まぁ気が向いたらあれに情でも掛けてやって」
そうしてひらひらと手を振ると、女はセレンの返答も待たずに部屋を出て行った。
快でも不快でもない、気まぐれな風が通り抜けていったのと似た奇妙な感覚が残る。ただ、やはり風は確実に空気の流れを変える。
「仕事とは別、か」
己と重ね合わせたとき、解けずにもつれていた紐の結び目の一つに、小さな隙間が空いた。俄かには信じ難いが、もし女の言う話が本当ならば自分が次に取るべき行動は何か。
時報の残響が消え、窓の向こうから城の勤め人の声が聞こえてくる。セレンは硝子の外に広がる庭の草木に目を向けた。
塀を伝って広がる蔓薔薇が花をつけ始めている。鮮やかな紅色は、あの耳飾りによく似ていた。
セレンの手が、何も無い耳たぶに知らずのうちに近づく。
指が小さく硬い石に触れる代わりに、やわな皮膚にぶつかる。
セレンは塀の一点を見つめ、唇を噛んだ。
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