募る思慕(七)
「私がセレンにお遣いをお願いしたのはもう十日も前なのだけれどね」
修道院宿舎の窓を全て閉め切ってから、ミネルヴァは切り出した。
教庁に駆け込んだフィロが言うには、セレンはケントロクス中央教会組織から教会自治区へ布令を伝えるためケントロクスから出たのだが、その後まったく音沙汰が無いという。とはいえフィロもそれを知ったのは少し前に教会学校へ訪れたときのことであり、焦りと思い込みの憤りで用事の詳細も聞かずに教庁へ駆けてきてしまったのだ。
クルサートルが質問を重ねるうち、フィロもやや冷静さを取り戻した。そこで、行った先で手がかかる事情があったのかもしれないと、二人で修道院のミネルヴァの元へ急行したというわけだ。
血相を変えたフィロと神妙な面持ちのクルサートルを迎え、老婦人はすぐに異常事態と察知した。
「お遣いは他の子に頼んでも良かったのだけれど、あの子の顔が暗く見えたから、外に行けば少し気晴らしにでもなるのではないかしら、と」
背筋を伸ばして椅子に座り、ミネルヴァはフィロとクルサートルが話についてきているのを確認しながら説明する。本心は気が気でないだろうに、さすが老修道院長は落ち着きを失わない。
逆に若者二人の方が平静を欠いていた。
「用事そのものはすぐ済むはずだったのでしょう? 距離的に行き帰りを入れても十日はありえない」
「そうです先生。それに明後日には学校の観覧日があるでしょう。セレンが参加するはずです」
「ええ。だから私も事故でもあったのかしらと心配になってきて」
「なんでもっと早くに仰ってくださらなかったのですか」
不安の色を濃くするミネルヴァに、フィロは抑えが効かずに詰問調になる。ミネルヴァはすぐに謝罪を述べ、前に身を乗り出したフィロに落ち着くよう諭した。
「ただ今回はセレンが遅くてもおかしくない理由があったのです。むしろすぐに戻るより良いと思っていたのですよ」
ぴしりとした佇まいを崩さぬままだが、ミネルヴァはやや顔を歪ませる。クルサートルが怪訝に眉を上げるのを見て、ミネルヴァは続けた。
「出かける前のあの子の顔がひどく思い詰めているように思えたんですよ。だから今回は急いで帰らなくてもいいから、途中の街でも見て二、三日ゆっくりしていらっしゃいなと言ったのです。少し旅費も多めに持たせて……」
セレンが任されている教師業も喜んで代わりを引き受けてくれた修道女がいた。他の修道女の目にも露わなほど様子がおかしく、代役になった修道女も心配していたのだ。
差し当たり修道院に大きな仕事もなく、ミネルヴァ一人でもやりくりできる状況だったのだ。悩んでいるのならとことん向き合うか、しばし日常から離れて思考が凝り固まらないようにした方が良い。
「人に話してしまうのが本当なら楽になる道なのだけれど……自分の悩みをやすやすと口にする子ではないでしょう。気を遣わせるからと」
ミネルヴァは頬に手を当て、「いまだに遠慮があるのだもの」と呟く。
フィロが横目でクルサートルを睨んだ。
「……フィロ、何が言いたい」
無言の非難ほど居心地の悪いものはない。我慢ならず問いかけるが、フィロはそれを完全に無視してミネルヴァに訴える。
「先生、そのセレンがこの間、私のところに相談に来たんです。具体的なことまでは話してくれませんでしたけれど」
「セレンが? それはいつのことです」
フィロが日付けを告げると、ミネルヴァは無言で頷いた。聞かずともその意味はわかる。セレンの出立の直前ということだ。
ミネルヴァ自身も、当初は二、三日気を晴らしたら戻るだろうと予想していた。少し長くなっても、セレンの性格からして明日には帰るだろうと不安を揉み消していたところである。
しかし二人の様子からして事態は思っていたよりも深刻だ。
「それでフィロ、あなたはセレンとどんなやり取りをしたの。詳しく聞かせてちょうだい」
ミネルヴァの顔にあった不安が高い緊張感に変わる。もう一度クルサートルを睨んでから、フィロはセレンが訪ねてきた時のことを説明しようと口を開いた。
しかしいざ話し出そうとすると、言葉が出てこない。
いくらクルサートルが原因だと思うと腹が立つとはいえ、セレンが彼に対して感じた印象をフィロの口から語ってはならないのではないだろうか。親友の自分だからこそ語ってくれた内容で、クルサートル当人にはけして言わないだろう。
「フィロ?」
固まってしまったフィロの顔をミネルヴァが覗き込んだ。恐らく曖昧な表現を使っても、ミネルヴァならセレンと誰の関係なのかは分かるだろうし、当事者のクルサートルは当然気がつくだろう。だが大事なのはセレンの想いを尊重することである。ここで二人に言ってしまっていいのか。
決心がつかず、フィロの唇は徒らに開いてはまた閉じる。そこに決断を余儀なくさせたのは当のクルサートルだった。
「フィロ、セレンが教庁に来たときに俺と会った話だろう。話しにくいのは分かるが、いまは話したい話したくないの問題より彼女の無事の方が優先事項だ」
冷静に理屈を語るが、クルサートルも焦りを隠せていなかった。
「どう罵倒されようが今は構わないから、何を話したのか教えてくれないか」
この冷徹な総帥秘書官が自ら譲歩するのは珍しい。正面と脇から話の先を求める視線を受け、フィロは観念してあの日のやりとりのこと打ち明け始めた。
「……という状態だったので、私も気持ちを落ち着けた方がと思ってセレンに教庁にはしばらく訪ねないように、出張に出掛けてしまうとかどうか、と言ってしまったんです」
セレンの恋心は出ないように気を遣いつつ、自分との会話の内容を打ち明ける。
まさかセレンに勧めたことが本当にすぐに実現するとは考えていなかったが、旅を長引かせるミネルヴァの提案をセレンが受け入れたとすれば、自分の発言にも後押しされたに違いない。
そう述べると、ミネルヴァはフィロの責任ではないと笑いかけてくれたが、まだ疑問が解けていない複雑な微笑である。
「それだけであの子がこちらの仕事ぎりぎりになるかしらね……」
「それはあたしも無いと……思うのですけれど」
ミネルヴァの意見は妥当だ。セレンなら務めを果たそうと帰ってくる。ならば本当に事故にでもあったのか。
女性二人は解けない問いに黙り込む。するとそれまで一言も述べずに聞いていたクルサートルが、やっと聞こえるほどの声で尋ねた。
「セレンは……俺が普段とは違う、俺らしくないと、そう言っていたんだな」
絞り出すように尋ねられ、フィロは困惑する。こんな余裕のないクルサートルはフィロも見たことがない。
当惑して返事に詰まっていると、「そうだな?」と今度ははっきりと畳み掛ける。反射的に肯定すれば、誤魔化しを許さぬ碧の目にぶつかる。
「それで、フィロは何と返したんだ」
「あ、あたし? え……そりゃクルサートルの年齢くらいならそういうこともあるっていうようなことを」
あまりの気迫にしどろもどろになるが、クルサートルはさらに低く「他には」と追究する。鬼気迫る様相に
「えっと、確か仕事とは別じゃないか、とか、あとは……確か、思わず本心が出ちゃったんじゃない、的なことを」
述べきらないうちにガタリと乱暴な音がし、フィロの顔に影が落ちた。立ち上がったクルサートルはもはやフィロもミネルヴァも見ていない。
「まさか……」
顔は歪み、いつもは冷徹なまでに落ち着いている目に、今は強い焦燥が浮かんでいた。そして次のわずかな間に、クルサートルは部屋の外へと飛び出していた。
「ちょっと!」
咄嗟のことで二人が止める声は届かない。部屋の中には、倒れて床に打ち付けられた椅子の残響が虚しく満ちるばかりだった。
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