募る思慕(六)

 窓を小刻みに叩く音が鳴り止まない。昨晩から降り出した雨は夜明けになっても止まず、室内の空気は湿気のせいで肌にまとわりついて鬱陶うっとうしい。

 太陽が出ていないと昼でも仕事をするには薄暗い。役所も閉まる休日ではあるが、この天気では外に出る気もしない。溜まっている書類を片付けてしまおうかとクルサートルは卓上の照明に手を伸ばす。

 灯りを点そうと油皿を開けたとき、部屋の外で呼び鈴がけたたましく鳴った。

「ちょっと馬鹿、あなた何したわけ?」

 扉の隙間が開いた途端に罵声が鼓膜に飛び込む。顔を見ずとも秘書官室でこんな所業をやってのけるのはあの女しかいない。

 そしてその女が自分を「馬鹿」と呼ぶ時の話の中身は決まっている。

「セレンがどうかしたのか」

「どうもこうも、聞きたいのはこっちよ。これだから馬鹿は困るのよ」

「俺が馬鹿なのかどうかというのは後で聞くから。頼むからフィロ、人を罵倒する前にまず状況を説明してくれ」

 激昂しているフィロを宥めるのは容易ではないが、さすがに腕をがっしり掴まれ文句だけ聞いていても埒があかない。できるだけ下手したてに出ると、フィロは鼻息荒く「これだから!」ともう一言吐き出し、やっとクルサートルの袖から手を離した。

 しかしクルサートルが安堵したのも束の間、フィロの口から信じがたいひと言が飛び出した。

「セレンが何日も帰ってこないのよ」


 ***


 目の前に鮮やかな黄緑の葉が舞い降り、くうで踊ってゆっくりと地に辿り着く。上を仰げば、爽やかな風が街路樹の枝葉えだはを揺らして行った。

 知らない街の風景を見ると、その新鮮さのおかげか、澱んでいた胸の内にわずかなり空気が通る気がする。

 セレンは葉を透かして降りる優しい木漏れ日に目を細めた。

 ——このまましばらく、時が止まったらいいのに。

 そんなことは起こり得ないと知ってはいても、ケントロクスから離れたこの地では現実から逃避してしまいたくなる。

 このあたりは街の中心部からはやや離れていて人通りも少ない。喧騒の代わりに耳に入る鳥の囀りが心を静める。飛翔する彼らを見送り、自分もどこに行くとも決めず歩を進めていく。

「うぉっ」

「あっ、すみません!」

 頭上を眺めながらぼうっと歩きすぎていたようだ。突然肩に衝撃を受けて意識が引き戻される。地上に視線を戻せば、どうやら自分がぶつかったらしい男性が右肩を押さえたままよろけて二、三歩後ろへ後退あとずさった。

「いや、こっちもよそ見してたんでお互い様っつーか……」

 男性はどこかの士官なのか、隊服と思しき装いをしていた。はは、と軽く笑って肩をはたくと体勢を立て直して顔を上げた。

 目があった途端、相手の顔が固まる。

「何をっ」

「黙れ動くな!」

 この顔は以前見た――そう思った隙がまずかった。普段のセレンならあり得なかっただろう。しかしいまや手首を掴まれ後ろ手に纏められて、あっという間に身動きを封じられる。

「あなたは……」

「こんな下っ端の俺も覚えてるか。やっぱあんたいいやつだな」

 耳の後ろからする男の声は言葉通り悪意がない。それが次の一言で、急に翳りを帯びる。

「俺も仕事なんだ、悪いけど。一回だけ許せよ」

 耳が寂寥感を感じ取る。だがそれに疑問を投げ掛けようとした時、首に鋭い痛みが走った。

 視界から全ての像が消える――セレンの意識は、そこで途絶えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る