募る思慕(五)
「怖いって、怒ってたわけ?」
「怒って……いたのかな。そう見えたけど、何に腹を立てているのかよく分からない感じが」
いま思い返すと、あの時クルサートルの抱えていたのは激情と名づけられるのではないか。言ってみれば――
「理性が無い……うん、それかな。そう思えて。いつも仕事の時は信じられないくらい冷静なのに、いままで見たことのないクルサートルで」
思考より先に口をついて、自分で組み立ててまとめたものではない、整理されないままの言葉が認識する前に飛び出てくるような。
かく言うセレンにも彼の様子がうまく言語化できない。他にいい表現はないかと徒らに茶器の中を眺める。
「まぁ……あれも自分でよく分からず行動することもあるでしょうよ。結構な身分だけれどまだ若造だし。取引先にもそういうのいるわよ。親の後を継いだけどまだまだって方々」
「そういうものかな」
「そうよ。個人的感情が絡んでいたら特にね。仕事と私事って別物なのに、うまく切り離せていないとか」
そうか、と口だけは同意したものの、セレンの疑問が晴れていないのはフィロにも明らかだった。顔色も、俯き加減で影が差していることを差し引いても、普段より悪く見える。
「それより大丈夫? 具合悪そうだけれど、食べてるの?」
「ああ……実は」
つつ、菓子皿が卓上で押されるのを手を挙げて遠慮する。ただ、心配をさせすぎても悪い。取り繕おうと取り敢えず茶だけ口に含む。
「アナトラから帰ってきてから眠れてなくて」
「何よそれ。駄目じゃないの、綺麗なお肌があの馬鹿のせいで荒れるなんて許し難い」
予想はしていたがフィロ相手に誤魔化せるわけもなかった。案の定よく手入れされた眉が吊り上がり可愛らしい顔に皺が寄る。
「寝られないと気分も下がるばかりでしょう。ミネルヴァ先生も心配なさるし良くないわよ」
「うん。そうなんだけど、いざ寝ようと思うと目が冴えてきちゃって」
「また考えすぎちゃうんでしょう。何か眠れる方法が……」
そう言いかけると、フィロは「あっ」と叫んで勢いよく立ち上がった。
「つい最近、いいお薬仕入れたからあげるわ。睡眠導入剤なのだけれど」
「薬? それって医師の処方が無いと駄目なのでは」
「ううん、薬って言うと大袈裟だけど、薬草の蜜で作った飴みたいなものね」
言いながらフィロは部屋の隅の箪笥を開けると、中から何やら取り出してきた。
「眠いのに眠れないんでしょ? 緊張を緩めてくれるから、そういう時にぴったり。薬茶と同じ類ね」
確かに薬茶であれば医師の許可なく民間で売買されている。中にはかなり効能の強い茶もあるが、人体に害がないと確認されてから出回るので、医師も業務削減のために患者に推奨することが多い。
フィロの家は業者と商家の仲介もやっている。世話をした相手から仲介料と共に気持ちばかりの礼品を受け取るのは日常茶飯事らしく、これまでもケントロクス外からの珍品をたびたび見せてもらったことがある。
セレンの向かいに座り直したフィロは、手にした小袋の口を開けて振り、受け皿にした手のひらに中身をこぼした。入念に手入れされているらしい滑らかな肌の上に茶褐色をした楕円形の小さな粒が転がり出す。
「周りが糖衣で覆われてるし飲みやすいわよ。私も使ってみたけれど、翌日にひどい不快感もないし」
「効きはかなり強いの?」
風邪をひくのも珍しいセレンとしては薬の世話になる機会も殆どなく、効力が高いと副作用が心配だった。
あまりに怯えた聞き方だったのだろう。フィロは「そんな怖がらなくても」とセレンの懸念を笑い飛ばした。
「飴みたいに舐めてればゆっくり瞼が落ちてくるって感じだから。噛んじゃうと危ないけどね」
粒をひとつ摘み、フィロはセレンの目の高さまでそれを上げた。
「噛むと糖衣が破けて蜜が溶け出すんだけど、この蜜が有効成分なの。舐めているうちに糖衣から溶け出してくるのね」
指を回して粒の表裏を見せながら、フィロは薬師さながらに説明する。さすが商人である。
「でも噛むと一度に出ちゃうでしょ。原液少量ならいいけど中身全部だとね、まず舌から痺れてすぐ意識が抜けちゃうんですって」
「すぐってどれくらい?」
「さあ……私も試したことはないけど、風邪の症状がひどい時とか外科手術の前に即効性を狙って飲ませたりするらしいわね。そういう時にはもう、ものの数分もせずに回っちゃうみたい」
手の上で軽く転がる艶やかな粒は見るだけなら可愛らしく、そんな特効薬とは思えない。ひとつ拝借して鼻に近づけてみるとほのかに甘い花の香りがし、それだけでも十分に心地よい安らぎを与えてくれそうだ。
「ありがとう。先生にご迷惑をかけないためにも貰おうかな」
ミネルヴァは何も言わないが、古い作りの建物で共に暮らしているから小さな物音にも気づきやすい。セレンが夜に落ち着かないでいると知っているだろう。何も言わないのは、察して気を遣っている可能性が高い。
彼女を安心させるならちゃんと寝たほうが良い。あまりに続きそうなら薬に頼っても良いかな、とセレンは薬袋を遠慮なく頂戴することにした。
「それじゃ、十日分くらい包むわね。飲み方も説明書き入れておくから」
セレンがわずかに明るい顔を見せたので、フィロは友人にはわからぬよう自分も緊張していた肩の力をゆっくり抜きながら、薬を菓子皿の脇に置く。そして茶器に砂糖を入れ、銀器で混ぜ溶かしながらゆったり話し出した。
「少し、セレンも教庁に行くのをやめた方が良いかもね。それこそ修道院関係の出張に行ってしまうとか、クルサートルに会う機会を無くしてみて」
本人たちの問題なので明言はしないが、フィロには二人の間に認識のずれがあるのだろうと確信していた。クルサートルの想いくらい、長年そばで二人を見ていれば分かる。
恐らく彼はセレンに嫌悪を抱いているのでも、セレン自身に怒っているのでもない。セレンが原因にありながら、別の何かに対して相当頭に血が昇っていたのだろう。
セレンもセレンで割と天然だ。正義感と情が絡んだら、もともと疎い恋愛感情の機微はまず気にかけまい。
——ありえるとしたらセレンに蔑ろにされて不貞腐れたとか……無自覚のやきもちとかじゃないのかしらね。
博愛のセレンと、フィロの目からすると独占欲の強そうなクルサートルなら十分起こりうる。
ただそれなら問題は小さい。むしろ片恋と思い込んでいるセレンと厄介な幼馴染がくっつく方向に持っていくには好都合である。セレンの方がクルサートルの気持ちを知って寄り添ってやれば、相手の機嫌も治るのだろうから。
フィロとしては、性格の曲がった秘書官に一度鉄槌でも食らわせてやりたいが、セレンさえ幸せなら満足である。ここは親友の自分がひと肌脱いでも良い——クルサートルに手を貸すようで癪だが。
「まあ……本人の理性も効かないってことは、怒りの原因ってそれだけ強い想いがあったんじゃないの」
「強い?」
疑問を浮かべるセレンをじっと見ながら、そうよ、と含みを持たせて念を押す。
「あの馬鹿秘書官が普段隠してるような欲望とか。『本心』の現れよ」
答えを言ってしまってはセレンも成長しない。自分の恋愛には鈍感でも、修道院や街で色々な人間関係を見ているセレンなら、前後関係を辿れば原因に辿り着くだろう。
狙い通り、セレンの目がはっと見開く。それを確認すると、フィロは内心で笑いながらも何気ないふりを装って茶菓子を頬張った。自分が口を出すのはここまで。あとは本人たちの問題だ。
「本……心……」
セレンの瞳に翳りが生まれたのに、フィロは全く気が付かなかった。
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