募る思慕(三)

「どうした?」

「あ、いや……」

 敏感なクルサートルが真隣にいて気が付かないはずがない。先日のことがある。しまったと思ったが、もう遅い。

 返答に詰まり、不自然な間が開いた。だが数秒後、セレンは瞼を閉じ、息を吐き出す。別に今回はメリーノと口を聞いたわけでもないのだ。

「修道院への道でメリーノに会った」

「メリーノに?」

 聞き返す声音に怒りはない。喉の緊張がいささか緩まる。

「会ったと言っても話はしていない。壊れた橋の川向こうにいた」

「壊れた橋……なるほど。セレンに手を出そうにも向こうも渡って来れなかったということか。あの馬鹿なら接触していたらどんな非道に走るか」

「あ、いや」

 豪雨の向こうに捉えた姿があまりに記憶と違ったからか、それとも助けられたがゆえの同情か。侮蔑的な笑いを含んだ評定を耳にして、セレンは咄嗟に否定の言葉を繰り返していた。

「それは、ないのではないかと」

 途端にクルサートルが眉を顰める。先を促されているようで、考えるより前に口が動いた。

「レリージェの元に辿り着けたのは、メリーノに助けられたから」

「あの馬鹿に? どういうことだ」

 クルサートルの声にも表情にもありえないという思いが露わである。それはそうだろう。現にセレンですら信じられない。

「私にも不思議なのだけれど実際そうなんだ」

 メリーノはセレンに道を示し、そして自らは無事に渡れる橋へは来ずに去った。その後どこへ行ったのかは知らないが、少なくともアナトラ中心部でカタピエ公の名前が出たのを耳にしてはいない。

「アナトラはカタピエと通じる道が通ってはいるが、もしや向こうは珠の在処を全て把握しているのか? しかしそれならなぜ奪おうとしないのか……」

「理由は分からないが、今まで聞く評判通りの非道なメリーノだったら、私が橋を渡ってくるのを待ち伏せしただろう。私もその点には警戒したけれど……でも何でか……あの時のメリーノには危険が感じられなくて」

 クルサートルに事の次第を説明しながら、セレンはアナトラでの邂逅を反芻した。脳裏に蘇るメリーノの立ち姿はテッレの教会やカタピエの館で顔を合わせた時とは明らかに異なる気を纏っていた。挑戦的でも威圧的でも無い。どちらかといえば情のある普通の男性——冷酷非情の暴君という世評にはまるきりそぐわない。

 胸の中に明確な形を持たない靄が生まれたようだ。ちょうど心臓近くにある首飾りの存在が、脈打つ鼓動のせいか強く感じられる。知らずのうちに、セレンの手はそれを包み込んでいた。

「あの時……サキアの珠を取り返すなら絶好の機会だったはずなのにそうしなかった。もしかしたら、メリーノには世間で言われている評価とは別の面があるんじゃないかな。私たちもカタピエのことを全て理解しているわけでもないし……」

「やたら奴の肩を持つんだな」

 凍りつくような一言に、セレンははっと顔を上げた。こちらを見るクルサートルの双眸。その冷え切った碧の色に囚われる。

「この間帰ってきた時は随分と怯えた様子だったはずでは? 何があったか聞かせてももらえなかったが。それが今度はまたえらく好意的だな」

「そうじゃない。私はただ事実を述べているだけだ」

 表面的な言い訳ではなく本心だ。セレンには好意的になっているつもりはさらさら無く、クルサートルの評価は心外だった。

「以前のメリーノが威圧的で横柄だったのは私も身をもって知っている。けれどアナトラの彼はまるで覇気もなくて」

「へぇ……」

 形の良いクルサートルの口の端が上がる。

「そういうに出たか」

「どういう意味だ」

「言葉通りだ。気の優しいセレンを落とす策としては正解かもしれないな」

 整った顔には笑みが浮かんでいるが、瞳が冷酷に光る――まるで獲物を前にした獣のように。

「奴がそういう手に出るならこっちから利用してやったらどうだ?」

 刺すような感情を直に当てられ、言葉を選ぼうとするセレンの思考を分断する。

「もしフリだとしたらみすみすこちらに珠を渡すようなことはしないだろう? どんな人だって変われる。クルサートルだってミネルヴァ先生からそう聞いてきただろう」

 だが、口をついて出た説得は逆に碧い眼の中に苛烈な光を生んだ。その双眸が容赦なくセレンを射抜く。

「先方の狙いは叶ったというわけだ。セレンがこれだけ心変わりするなら」

「ちがっ……」

「いいんじゃないか」

 からかいでも侮蔑でも無い。氷を思わせる眼差しなのに、その奥に焔のような激しさがちらつく。今まで彼の静かな怒りを感じたことは度々あったが、こんな理由も分からない激情を表したことはない。

 セレンの知らないクルサートルがそこに居た。

「あの馬鹿が胎の中で何を企んでいるのか知らないが、得意の色仕掛けでも仕掛ければいいじゃないか」

「何を……どうしたんだクルサートル、なんでそんなに頑なに人を疑う?」

 確かに政治や職務においてクルサートルは時に他を黙らせるほど厳しい態度を取る。しかしそれらはどれも正当な理由があるからであり、真を問わずに独断を下す人間ではない。 ミネルヴァの教えを共に受けてきた者なら、人の行動を軽率に決めつけるような真似はしない。

 それより何より、冷静で厳格であってもセレンの前ではどこかに柔らかな気を感じさせていたはずだ。しかし今はどうだ。

「メリーノが心根正しい人間に変わりつつあるなら喜ぶべきだろう? なんでそんな冷たい目を……」

 問いかけても無駄だった。むしろセレンのさらなる説得に、クルサートルの語気はいっそう冷えていた。

「そうだな。悪いが俺は冷たい人間なんでね。向こうはセレンに気があるなら優しくしてくれるだろうよ」

 言葉を断ち切り、クルサートルはセレンに背を向けた。

「本気で言っているのか」

「俺が冗談で言う話とそうじゃない話くらい分かるんじゃないか」

 薄い笑いを浮かべたまま、クルサートルは乱暴に椅子を引く。書見台の上に積まれた資料を摘み上げ、セレンの方を見ようともしない。

「優しさが欲しいなら別を当たれ。今なら簡単に叶うようになっただろう。温かく受け入れてくれるだろうよ」

 書類越しになった声は、実際の距離以上に遠くに聞こえる。

「話を聞く気は……無さそうだな」

「業務上必要な話なら聞くが、あの馬鹿の人間性に関する言い合いなら続ける気はない。信じたいならセレンだけ信じればいい」

 羽ペンを動かしながら淡々と述べるクルサートルの表情は分からない。確かなのは、拒絶というその意思だけだ。

「ともかく今日の話は終わりだ。セレンが情を感じるなら好きにすればいい」

 眼差しも与えられない。それなのに斬られるような感覚が全身を襲う。

 沈黙の間は長かったのか、短かったのか。

「……もういい」

 吐息の中に微かな聞こえた言葉のあとは、扉が残した音が虚しく響くだけだった。

 セレンの身は、廊下を進む足音すら残さない。

 代わりに机の上で羽ペンが空虚な落下音を立てる。意識的に動かさずにいた視線の先で、倒れたペン先が紙を汚していた。

「何をやっているんだ……俺は」

 滲み出した染料がいたずらに広がる。

「大馬鹿者は俺のほうだ」

 暗色の染みは線も形も成さない。

 無様だ。己のように。

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