第三部 苦悩と恋慕

第九章 募る思慕

募る思慕(一)

 アナトラを南北に抜ける公道を通り、教会自治区と自由州を抜けてアンスル大陸中央方面に北上すれば広範な領地を有するカタピエ公国に辿り着く。南方に散在する連盟国を巡ってカタピエに帰るならば規制の緩い自由州を通るのが面倒がない方法だ。

 公国首都の市門方面から広大な領主の城へ伸びる道は青葉を茂らせた街路樹が整然と並ぶ。その葉の影を踏んで、邸宅の門を一頭の騎馬が通り抜けた。漆黒の柵からなる門扉を開けた衛士が、領主の帰還に緊張を高めて敬礼を送る。

 だがいつもなら険しい一瞥でもって主人が留守中だった間の緩みが正されるのに、今日はそれがなかった。それどころか焦点の合わない目はどこを見ているのかすら分からない。

 常に隙なく冷徹なまなこで相手を縮み上がらせていた主はどこへ行ったのか。それとも束の間の静寂は嵐の前兆か。不可解な気持ちに包まれながら、衛士は館へ進んでいくその背を見送った。


 ***


 宮廷の奥に来る者は限られ、訪問客も大抵は別棟にて応対する。特別な許可が無ければ訪れは許されないはずだ。だが今日は珍しく私室の扉を叩く音がする。

 人と会いたい気分でもなく聞き流そうと決めたが、応えを待たずにガチャリと取手が回った。

「入室許可を出してはいないが。扉を叩く意味はあったのか」

「入るという事前予告」

 予告と実行がほぼ同時である。こんなことをするのは一人しかいない。呆れと諦めの混じる想いで顔も見ずに問うと、入ってきた方は悪びれもせず言ってのける。

 この屋敷の者か、少なくとも市井の人間なら領主に先のような一言を放たれては竦み上がるだろうが、この訪問者に限っては効果がない。現にずかずかと遠慮もせずに室内中央まで進み、本来なら部屋の主人が腰を落ち着けるはずの布張りの椅子にぽすりと身をうずめた。

 対して主人の方は、窓の外を眺めたまま迷惑だという態度を隠しもしない。

「何しに来たんだ」

「大したことではないからそう冷たくあしらわなくても。単に想い人に逃げられた情けない暴君の顔でも拝めようかと思って」

「それのどこが大したことがないと!」

 まともに顔を見るまいというメリーノの決意はあっさり崩れ、思わず振り返ってぶちまける。すると怒声を浴びせられた方は、してやったりと満足気に足を組んだ。

「笑えるよねぇ。外から見れば顔だけはいい女好きの冷徹非情な伊達男が本命には手も出せないとはさ」

「……彼女は」

「しかもちょっと強気に出てみたらしっぺ返し喰らうとは。さすか所詮は中途半端な女好き。各国から美姫を呼び寄せておきながら大して手も出さないもんねぇ」

 反論を遮られた上にさらに醜態をあげつらわれ、メリーノの眉間に皺が寄った。

「誤解するな。私は」

「表向きだけだって言いたいんだろう」

 しようと試みた抗弁もさせて貰えない。どこまで見透かす気なのか。

 迷惑な客人の不快極まる指摘は、部分的には事実である。色好みは認めるが、方々から屋敷に集めた娘たちを誰も彼もと抱いたわけでは無い。空想により誇大された噂が都合よく独り歩きしただけだ。

 目的はそんな巷の娼婦でも買えば済むような話ではない。ただ表向きカタピエの力をちらつかせれば娘たちは言うことを聞き、彼女らと繋がる国々も下手な手を打たない。それが好都合なだけだった。

 確かに彼女たちのうち数人を犠牲に自分の色欲を快楽で満たしたこともあったがすぐに飽きた。従順に首を縦に振る娘たちは肌の味を一度試してしまえばそれまでで、二度三度と求めたいとも思わない。

 大方の女は顔もろくに見ず別棟に住まわせていただけだ。輿入れさせた者たちが一人、また一人と消えたと聞いても、困惑や焦燥が生まれたのは愛でる対象が消えたからという理由ではない。

 だが一人だけ例外があった。

「今までのそちらの助言通り強気に出たら全く効かなかった……どうしてくれる」

「それは言い方やり方の問題ではなくて? 強気って言っても惹かれる強気と数歩引く強気があるってもんよ? どうせ気色悪い言葉でも並べたんでしょ。口説き慣れない人間らしく」

 悉く図星である。その結果、唯一本当に留めおきたいと思った相手は自分の脇をすり抜けて行った。

 だが、あの時が契機だったのだという確信もある。

 一度目は単なる興味だったかもしれない。月光の下で一際美しい姿が計略の材料を奪っていった。一瞬で目を奪われた謎に包まれた娘は誰なのか。

 二度目の彼女は普通の町娘と大差ない姿で、聖なる空間に佇んでいた。それだけで惹きつけられるに十分な条件なのに、あの凛とした声。神の名を最後に口にして消えた姿をもう一度見たいと、切望しない方がおかしい。

 それまで可憐だ雅だと盛んに賛美されてきた娘と一夜を過ごしたところで、何を得られたとも思えなかった。むしろ夜が明けても満たされぬ穴のせいで、かえって虚無感が増すばかり。

 だが彼女は違う。

「はじめは……あれほど美しいものが本当にこの世のものならと思ったのだがな」

 人の子なら、間近に置いたらどうなるのか。それまでとは違う愉悦で虚無は消えるのか。凛々しい姿勢は外向きに過ぎず、直に肌を触れたら表に見える美しさは剥げ、生身の娘らしくか弱く恥じらう姿を見せるのか。

 知りたいと、単純な興味で欲が出る。

 だが三度目にまみえた時、自分の中の全てがひっくり返った。

 心臓まで貫くと思うほど強い射抜くような銀の瞳。体の髄にまで響く声。いかなる力をもってしても揺るがない精神がメリーノを凍りつかせた。

 それでもメリーノの間近に迫った彼女の熱は、幻ではない。紛れもなく彼女は現実の存在だ。

 ごく短い間、剣を向けた自分に怯えを見せて震えた彼女は人の子だった。それが一瞬にして、神の前かと畏怖すら覚えさせたのだ。

 美しいと思った。心底から――外見ではなく、自らの動きを奪ったあの意志が。

 ――憧れ、と言うのだろうか、これは。

 もう一度会いたいという気持ちは。

 体とは裏腹に気持ちは遠くにあるその場限りの肉体的な快楽など意味を成さない。得たいという渇望は、本質的に変わってしまった。

 同時に経験したことのない底知れぬ恐怖が臓腑を掴む。

「拒絶、はくつがえるものだろうか」

 ここにいる相手に言っても仕方ないと考える理性さえ抜け、思考がそのまま音になってこぼれ落ちる。

「女性に接するには強さと優しさをちょうど良くって言ったよね。まあ身をもって学んだんだから次は大丈夫なんじゃない」

「優しく……かは分からないが、強気はやめてみたのだがな」

 メリーノは再び窓の外を見遣った。少し前にあった嵐のどす黒い雲は空の彼方に消え、冴え渡る青が目に眩しい。あんな猛々しい豪雨を降らせたのは幻ではと疑いたくなるほど。

 あの娘も似たようなものだと瞼の奥が痛くなる。アナトラを抜ける時の偶然の邂逅は、夢だと言われたら信じてしまいそうだ。あの時はむしろ遠くから助ける優しさではなく、攫ってくるべきだったのか。いやでも、そんなことをしたら――

 直に触れることすら叶わなかった右手を虚ろに眺め、やるせなさに空を掴んだ。その様子を眺めながら、客人は揶揄いをやや和らげる。

「ま、次はそんなに気張らず自然体でいたらいいんじゃない?」

 知らずに出ていた溜息は、離れていても聞こえる大きさだったらしい。先ほどまで興味本位の観察者でしかなかった口調から棘が数本抜けている。

「次、か。次があればな」

「あるように願うくらいならしてあげる」

 不安げな独り言にさっぱり返すと、客人はすっくと立ち上がった。錦糸織の長衣が揺れて涼やかに衣擦れの音が鳴る。

「もう行くのか」

「様子を見にきただけだし。優しいでしょ」

 どこが、と否定する間も与えず優雅に部屋を闊歩すると、自由な訪問者は扉から半身出たところで振り返る。

「またいつでも来るよ。困ったらお姉さまに任せなさいな」

 ね、と片目をつぶってみせる様は、それだけ見れば華やかかつ人好きのする令嬢だ。颯爽と立ち去る後ろ姿を追う男も多いだろう。

 しかし血の繋がった弟にしてみれば、この笑顔こそ鬼門である。役に立つか立たないか、気まぐれな本人にしか分からない。

 困ったところで呼びたくない。

「……が、そこで来るのが姉上だな」

 少なくとも想い人と正反対な人間に分かるものかと、メリーノは本人を前に言えない悪態を虚空に吐き出した。

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