水の加護(四)

 修道女の瞳には誤魔化しの効かない力がある。あたかも四神を乙女の姿に擬人化した祭壇画の前で神と向き合わされているような、何もない空間にいるのに身体全体が見えない何かに囲まれているような、あの感覚に包まれる。

 だがそれも束の間だった。祭壇画の乙女の厳かな瞳が湛える力は緩み、セレンと同じ年頃のあどけなさを残す娘の顔に変わる。 

「お会いした時からうっすら感じていましたの。公女たちが描くのは、夜の静寂しじまの中で囁きでも凛と通る声、しなやかに伸びる身体と漆黒の髪、それから……闇夜に浮かぶ清らかな月の色と同じ瞳」

 セレン様そっくりですわ、と優しげな目が細められた。ここまで確信されていてはもう否定できない。

「隠しようもありませんね」

「ええ。でもお望みなら口外はしません。それよりも何か御礼をさせてはいただけませんか。この身を助けていただいた御礼を」

「いいえ、それには及びません。果たすべきことをしたまでですから礼を受ける謂れがない。無事で良かったと思うだけで」

「それではわたくしが納得できません。それにこの国の修道院をまとめるわたくしがいなくなっては、困った方々が行き場を失うところでしたもの。御礼を受け取っていただかなかったらわたくしの心が助かりません」

 口調はたおやかであるのに、有無を言わさぬ空気が醸し出されている。かと言って救援隊の一人に過ぎないのであるし、やはり言葉以上の礼をされるのも違う気がする。

「何でも構いません。大したことはできませんが、何かしらわたくしがお役に立てるようなことがあれば」

「何でも……」

 返答に窮してこちらをじっと見つめるレリージェの双眸から無意識に逃げてしまう。しかしどこを見れば良いのかと、つい視線が揺らいだ。

 すると焦点の置き場に迷った視界の中に、一際ひときわ強い輝きが飛び込んだ——レリージェの腕輪である。

 セレンの視線が一点で止まったのにレリージェも気づいたようだ。

「これ、ですの?」

「あ、いえ」

 掲げられた華奢な腕を細い金属が巡る。その上で、夕焼けを受けた珠が輝いた。風も雨も止んだいまは何の力も発せずただそこに在るだけだが、厳かな静謐さは変わらない。

 セレンには何も言えなかった。

 いくらアンスル全土の安寧を期してとはいえ、絶対ではない計画のためにアナトラを護る宝を望むことが許されるはずもない。

 しかしもしこれが本当に四神の珠の一つであるならば、大陸に平和をもたらす一縷の望みに賭けて、欠かすことはできない。

「――何か事情がありそうですわね」

 重ねて尋ねられるが、返す言葉が見つからない。辞退を申し出るべきだと理性が強く訴えているのに、珠から目が離せない。その一方で、先の問いの答えを見極めようと、レリージェがじっとこちらを見つめているのが分かる。

 互いに一言も発さず、ただ時が流れた。

「分かりましたわ――差し上げます」

「え?」

 遠くで鳴った教会の鐘が張り詰めた空気に波を作る。その直後に耳に入ったレリージェの澄んだ声は、窓の隙間から入る涼やかな風が部屋の澱みを浄化するのに似ていた。

 とはいえ、言葉の内容は即座に理解するには非現実過ぎる。

「わたくし、人のお考えを見抜くのには長けていると自負しておりますの。セレン様は何かしら大きなことを抱えていらっしゃるご様子。そうでしょう?」

 そうは言われてもセレンはまだ相手の申し出が幻聴かと思わざるを得ない。だが呆けているセレンとは逆に、レリージェは「あら、当たりですわね」と愉快そうだ。

「抱えていらっしゃることが悪いことだとは思えませんわ。だっていまのわたくし、腕輪をお渡しすると言っても何も不安がありませんもの。それにたったいま、この腕が温かいのですから腕輪もそうしなさいと」

「確かに……私たちは平穏を願って四神の力を集めています」

 滔々と話が進められていくのを聞いてようやく感覚が戻ってくる。そう簡単に決断させていい話ではない。

「でもその腕輪はアナトラの聖物でしょう。ここから持ち出してしまってはアナトラの皆様の不安が起こるのでは」

かたちが無ければ信じられないなど本当の敬虔な心ではありませんわ」

 事実とはいえなかなか口にし難いことを笑顔でさらりと言ってのけると、レリージェは唖然とするセレンを前に平然と続ける。

「誤解なさらないでください。拠り所は必要ですの。目に見えない御力はやはり覚束ないものですから。でも消えてなくなったのではないと分かっていれば問題ありません」

 レリージェはにこにこと笑いを崩さない。

「それにこの珠にあるらしい力もわたくしが持っていた時にはセレン様がお持ちになった時ほどの奇跡を起こしたりしませんもの。きっと在るべきところを珠も知っているのでしょう。それならわたくしが身につけていてもそこまで意味があるとは思えません。御神体とはいえ、普段は表に出ずに代々の修道女が保管しているだけですし」

 確かにセルヴィトゥの宝玉も公女の手にあり、失くしたところで公国領主が慌てふためくこともなかった。娘の安全のみ気にかけていたアナトラの州長も同様だ。この二国では女にのみ受け継がれるということだろうか。

 依代となるかたちは、修道院が神に近い場所としてあるのと同じように、人々の心に平穏を与え得るためには必要だ。レリージェが守ろうとした聖物も喪失させるわけにはいかない。

「わたくしが避難せず留まったのはこれをけして失くしてはいけないからですわ。人の目に普段触れなくても、無事に在ると分かっていることが重要なのですから。手から離れてどこか知れぬところに失くなってしまうのと、どこに在るのか分かっていて手放すのとは意味が違うのです」

 レリージェの笑顔はけして弱い者のそれではない。うちに宿る曲がらない精神性はきっと生来の気質だろう。そしてその強さの中には、無為に断っては非礼にすらなる信頼があった。

 真摯な思いを向けられた方は、応えなければならない。

「本当によろしいのですか」

「ええ」

 深く頷いてから、「それに」と付け足す。

「わたくし、見てみたい気もしますの。この宝が善きことに使われるときに一体どんな奇跡が起こるのか。でもそれはわたくしの内にあっても発揮されないみたいですから」

 そして白く長い指が輝く腕輪を華奢な手首から外す。宙空を切り取る輪の中で茜の円が鮮烈に輝く。

 その光輝を手中に包むように、セレンは輪を受け取った。

「それでは、謹んでお受けします。頂くのではなく『お借りする』ということで」

「あら、わたくしは初めから未来永劫差し上げるなんて申し上げておりませんわよ?」

 わざとらしくおどけた調子を作ってみせてから、レリージェはセレンの手を腕輪ごと包み込んだ。

「必ずお返しくださいな。そうすればわたくしももう一度セレン様にお会いする口実ができますものね」

「それは私としても嬉しい。レリージェ様にお会いできるなら」

「『様』だなんて嫌です。レリージェとお呼びくださいな」

 レリージェはむくれて口を尖らせる。だが目は怒るのではなく楽しそうだ。

 二人の娘はしばし互いの瞳の奥を見合い、相手の顔に歳相応の大胆さと友にだけ明かす企てを読み取ってクスリと微笑した。

 握っていた手が離れると、レリージェは細く息を吐き出した。それは緊張の緩みとも、あるいは感嘆とも取れる。

「噂にたがいませんわね——訪れた方々が仰ってましたわ」

「訪れた、とは公女たちのことですか」

「ええ。『穢れなき月色の瞳の力が天から現れた』と口を揃えて。それに……」

 巷間で囁かれる話は耳にしている。そんな大層なものではないと否定したくとも自分だとは言えず、むず痒く感じていた口伝えだ。

 しかし次の文句は、セレンが今まで耳にした記憶がないものだった。

「暴君に抱かれ穢される前に、月光が清らかな身のまま返してくれたと」

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