水の加護(三)

 レリージェが示したのは州長らが出てきた正面玄関からやや離れた位置にある扉だった。同じ建物ではあるが、市民用ではなく勤め人用に作られた扉だろう。誘われて中へ入ると飾り気のない狭い間で、すぐそこに奥へ繋がる廊下が伸びていた。

 レリージェは取手をゆっくり引き寄せ、音をほとんど立てずに玄関扉を閉める。連絡に走る街路の役人の話し声が途端に小さくなった。

「まずは改めまして、ありがとうございました。わたくしと、そして何より我が国の神の加護をお守りくださいましたことを」

 しなやかに腰を折って礼を述べる。そして再び居直ると、レリージェはセレンが口を挟む間も無く険しい面持ちで続けた。

「それから、どうしてもセレン様にお聞きしておきたいことがございます」

「私もです。帰る前に確かめておかなければ、と」

 女同士の話というのは単なる言い訳に過ぎない。何を聞かれるのかはセレンも確信していた。知らず首元に手がいき、湿り気の残る肌の上で鎖を握りしめる。

 互いに相手を見つめ、言葉なく肯定を示す。先に見た力とその源は、アンスルの伝説を知り、それを信じる者であれば他の可能性を思いつくはずもなかった。レリージェの瞳の中に答えを読み取り、セレンは切り出した。

「やはりそうなのですね。貴女がお持ちの腕輪にある珠が御神体だとすると、この地は風の神の加護があるということになる」

「ええ。修道院の長になるべき修道女が代々受け継いでいた宝です」

 慈しみのこもった眼差しを腕輪に向けて、レリージェは自らの手首をもう片方の手で包んだ。

「でもこれまでこの珠があんなにはっきり力を発するなんてことは……わたくしが修道院に留まっていたのは珠の加護で暴風が防げると思ったからでは無いのですわ。単純に建物の中にいればいずれ雨も止むだろうと」

 代々受け継がれてきたというならこの地の過去の歴史書に力が発揮された時のことが記される可能性は高い。しかしそうセレンが問うとレリージェは首を振った。修道院長は院に保管された膨大な数の古書も管理するため、修道院運営のためもあってそのうち主要な書物は一通り目を通すが、今回のような珠の力を伝える記述はないという。力の話はあくまで口承を基本に伝えられる事柄らしい。

「ひょっとすると神の珠は互いに出会うと力を増すのかしら」

「そうかもしれません——少なくともケントロクスではそうした伝承もあるようです」

 セレン自身が細かく読んだわけではないが、クルサートルが発案した計画ではそういうことになる。単独で持つだけでは大した力にならないが、集めて初めて真の力を発揮する。サキアの宝玉がセルビトゥから奪われてメリーノの下に置かれたまま、セルビトゥが奪還に乗り出さなかったのも国にあるときには象徴的存在でしかなかったのが原因なのだろう。

 ただ、今回部分的に顕現した力からすると、やはりクルサートルの企ては的外れではない。

 セレンの表情から意味を汲み取ったのか、レリージェは腕輪に目を落とし、そうですか、と短く述べた。

「伝承が真実であるならば、何らかの御力をと願ってしまいますね……このところのアンスルはおかしいですわ」

 なに不自由なく育ったという小綺麗な顔に憂いが浮かぶ。自分の身に痛みはなくとも、常日頃より人々の辛苦に耳を傾ける修道女なら無理もない。

 セレンが幼少時にケントロクスにやって来て一番古い記憶から辿ってみても、アンスルは災いばかりが起きている。海は荒れ、地震は多くなり、天災で害を受けた地にケントロクスから援助が派遣されたのは何回になるだろうか。さらには今回の大嵐だ。

 そして天災が重なる中で、他国の資源や勢力図の書き換えを狙って巻き起こる戦禍。

 帰る場所を失い頼るものもない――足をつけるべき地面が突然失われた途方もない不安はセレン自身も身をもって経験していた。

「手を取り合うべきとわかるはずなのに、おかしいと思いますの。世界の均衡が崩れて、それが人々の心の均衡も崩しているみたいですわ」

「そのせいもあるでしょうね、混乱の機に乗じて覇権を握ろうとする国があるのも。戦の形を取らずとも、故郷から無理に出される方々がいるのは……」

 セルビトゥの公女をはじめ、自分が屋敷から救い出した乙女たちの絶望した顔が脳裏に浮かぶ。彼女たちの哀願する瞳の奥に見た想いに対して生まれた感情は、少し前までは同情と怒りでしかなかった。

 しかしいま、それは思い出すだけでセレン自身の髄まで容赦なく入り込む。記憶に新しい恐怖が全身に立ち返り、いつのまにか両腕が自らを抱いていた。

 だがふと頭を掠めた映像が、その恐れを記憶とは異なるものに変える。雨と風を介していたのに網膜に焼き付けられた像。

「――アナトラは教会の歴史も古いですから、修道院に寄られた女性が何人かあったのです。例の大国から逃れたのちに。ただ彼女たちはわたくしと似たように神の使いに助けられたと聞きましたわ」

 わずかだがセレンの目が泳いだのをレリージェは見逃さなかった。ただ動揺を別の意味にとったらしい。月を思わせる銀色の奥の奥までを見通すがごとく、セレンの瞳を捉える。

「どうか嘘は仰らないで。やはり貴女でいらっしゃいますでしょう。乙女たちを救った神の使いというのは」

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