水の加護(二)

「護り?」

「ええ」

 娘は手首を一回りする銀の細い輪を外す。差し出したまま中空で固まっているセレンの手の上に、娘は自らの手を重ねる。そしてそれが何か硬い感触を与え、ゆっくりと浮いた。

 娘よりもやや大きい手のひらの上で、卵型のサキアの球体が針金のような輪に囲まれていた。かと思えばたちまちのうちに銀輪の内側が薄い緑の光を発し始めたではないか。そして皮膚の上に光の円が描き出されるのに呼応するように、玉の内側からも淡い煌めきが漏れ出す。

 その様を穏やかな面持ちで眺めながら、娘はつつ、と輪の上に指を滑らせる。その内側にあって、今やセレンの手のひらは一粒の滴を受け止めることもなければ、湿気を孕んだ風に撫でられることもない。

 手で包み込める小さな空間で起きている奇跡に目を逸らせない。周囲にあるはずの木々のざわめきや轟く雷鳴は、既に耳に入らなかった。

 唯一鼓膜を優しく震わすのは、光に似つかわしい澄んだ声。

「あなたのこれも神の御力を授かっているようですね。自然の怒りも和らぐかもしれません」

「おっしゃる通りかと」

 心なしか、手のひらが温かい気がする。

「ぐずぐずしていると神のお叱りを受けるかも。参りましょう」

 目と目を合わせ、互いに頷き合う。会話はもう不要だ。

 川向こうの空にたちこめる雲の中、鈍色に白が混じった部分が現れる。薄くなった層を透かして降りるのは陽の光か。

 水を含んだ馬の毛を撫で、光明の兆しを指差し元気づける。主人の囁きを聞いた獣は大きく首を一振りすると、二人の娘を乗せて威勢よく駆け出した。

 


***


  

 他国との境界線近くに建つ修道院を発ってからどのくらい馬を走らせていたのだろうか。市内の行政区画に入った時にはもう、上空に浮かぶ白雲に茜色が射していた。雨雲が薄れ雲間が現れたのだ。視界は明るく開けて顔を庇う必要もない。雨風はもはや脅威を与えたことすら嘘のように弱まり、ぽつぽつと雫を落として服にまばらな染みを成してはすぐ消える。

 市内を中央に走る道へ駆け込むと、蹄が舗石を打つ高らかな音が閑散とした街路に響き渡った。石壁の建物に跳ね返って木霊し、道の向こうへと飛んでいく。それを聞きつけたのだろう。前方に建つ比較的大きな館から、小柄な人影が飛び出してきた。

「レリージェ!」

「お父様!」

 水溜まりの泥はねにも構わず走り寄る老人にセレンの背後から喜色を帯びた呼び声が飛ぶ。よたついた足取りの州長の後からもう一人、すらりとした長身が扉から出てきた。その姿を目にして、頭痛すら覚え始めていたセレンの緊張が緩む。

「よくぞ無事で……何かあったらどうしようかと」

「ご心配おかけしましたわ。でもご覧の通りです。セレン様のおかげでわたくしは何ともありません」

 州長が今にも泣き出さんばかりに娘を抱擁する。その背後についたクルサートルは、セレンへの礼も忘れて傷はないか、気分はどうか、と娘の体を気にかける老人へ冷笑を送ったが、セレンと目が合うと碧い瞳にすぐ優しげな色が浮かんだ。

「人員が増えたから修道院に救援を出すところだったが、要らなかったな。この馬も相当な傑物か。二人乗りで大した疲労も見せないとは」

 労いを口にはしないが、先のクルサートルの瞳を見ればセレンにはわざわざそんな言葉ものはいらなかった。

「この子も今はまだ興奮しているだけだと思う。相当疲れているとは思うから、よく休ませてやって」

「厩番に伝えておく。それにしても俺の予想より早かった」

 感極まって再会を喜ぶ州長の脇で、一般的には血の気の多いはずの若者が、帰還を当然のように語る。この場にフィロがいたら気遣いの言葉はないのかと眉を吊り上げて文句を並べたてそうだが、常と変わらぬ素振りを見せながらも仕事中のクルサートルが纏う隙の無さは薄れている。

 それこそが、常々保ち続けている緊張や警戒心が、安堵によって無意識に崩れた証拠だ。

「途中で小雨に変わったし、修道院からここまではそう距離も無かったから」

 相手の胸中には敢えて触れまい。クルサートルのすかした顔を見上げてはにかむと、セレンは首にかかる細い鎖を引っ張って胸元から預かりものの玉を引き摺り出す。レリージェがセレンの負担を軽くしようと途中で返してくれたのだ。

 服の影から現れた卵型の銀面上で、サキアの紋章が夕暮れの陽を受けて浮かび上がった。話しているうちに雨はあがり、いまや中の珠が放つ青い光は見えない。まるで役目を終えて眠ってしまったようで、戦後に身体を休める戦士を思わせた。

「多少なり役に立ったか」

「ああ。持たせてくれたおかげで豪雨を抜けられたのだと思う。ただ、さすがに人の手ではそこまで強い力は出さないようだけれど」

「単独で持っていたというのもあるかもな。一つで強大な力を出すようではサキアやセルビトゥがそれを持っていた時点で彼らが覇権を握るのに使っているだろう」

 クルサートルの声が一段低くなる。他に聞こえるとまずい。もう一つ報告しておかねばならない事項も人の耳に入れて良いか判断しかねるところである。首は動かさぬまま周囲にざっと目を走らせ、セレンも声を落とした。

「実は嵐から守られたのは水の珠これだけのおかげじゃない。かなり可能性は高い。もしかした……」

「セレン様、ちょっとよろしいでしょうか」

 唐突に背後から呼びかけられ、セレンは即座に口を噤んだ。密話を始めるのに州長らに背を向けた瞬間に呼ばれるとは思わず、不覚にもびくりと肩が震える。

「いかがしました」

「お話し中をお邪魔致しまして申し訳ありません、秘書官様。けれども秘書官様とセレン様はすぐにお戻りになると聞きましたから、お伝えしておきたいことがあって」

 不意を突いたレリージェの呼びかけに即座に振り返り何食わぬ顔で応対するあたり、公での他者とのやりとりに関してクルサートルはセレンとは場数が違うと見せつけられる。はらの内では何を考えているのかいまいち読めないあたりが恐ろしいが、少なくとも初対面の人間は簡単に騙せるだろうから天晴れというものだ。

「その点に関してはこちらこそ面目もございませんが、教庁の業務を中断して急行しましたもので。父君にはお伝えした通り、ケントロクスの役人は残していきます」

「お謝りにならないでください。救援にいらしてくださっただけでもどれほどの恩があるか」

 濡れた髪を垂れて深々と頭を下げると、レリージェはクルサートルからセレンに視線を移した。

「それにセレン様がいらっしゃらなければわたくしはどうなっていたか」

「私も救援隊の一人ですから。修道院に行かなければ職務怠慢となってしまいます」

 あまりに畏まられても落ち着かないので冗談めかして笑うが、レリージェは真剣な面持ちを崩さない。その表情から彼女が言外に主張していることが読み取れる。

「殿方がいるところでは伺いにくいお話ですから、場所を変えてお聞きしましょう」

 言いながらクルサートルに目配せをする。表向きはセレンの上司に当たる秘書官だ。そのクルサートルが首肯すると、レリージェの顔が明るくなった。

「ありがとうございます。長くはかかりませんわ。こちらへ」

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