第八章 水の加護
水の加護(一)
これほど優美な佇まいはあるだろうか。
「市からいらしてくださったのですか」
訪れた者にかけられる挨拶すら俗界と無縁に感じる。
幅も奥行きもけして大きくなく、幾つもの階層があるのでもなく、極めて簡素でありながらそう感嘆してしまうほど、修道院は観る者を惹きつけた。薄緑色の壁が筒を作り、その上に一回り細い階が載るだけであるが、門扉や屋根に刻まれた古語による祈りの文言が流麗な線を描き、飾り紋様のごとく縁を巡る。
扉を開けた女性は、その雅な様を分かち持つような品格を漂わせてセレンを迎えた。
「あなたが州長殿のご息女ですね」
絶え絶えになった息を整え尋ねると、女性は驚きも動揺もなく頷いた。頭が回るのも速いのだろう。この事態に辺境の修道院に駆けつける人物がいるとすれば、関係者から自分の所在を伝えられたのだと了解している。
「危険な中をありがとうございます。こんなに濡れてしまって申し訳ないことになりましたわね。嗤う方もいるかもしれませんが、市に行く前にやはりここに寄らないことには……」
分厚い布を差し出しながらやや自嘲的に女性は笑む。そうするとまだ幼さが残り、セレンと変わらない年頃だと知れた。柔らかな声で己を卑下する姿を前に、濡れて重たくなった頭を振る。
「嗤いなどするものですか。神の加護の
「まぁ! ごめんなさい、あなたも修道女でいらっしゃるの?」
「いえ、修道女の資格はありませんが、修道院で育ちました。アナトラのことも師に教わりました」
セレンが娘から受け取った布で水滴を拭きながら答えると、相手ははたと瞼を
「こちらの素性も名乗らず失礼をしていましたね。ケントロクス教庁からの救援の一人です。といっても私は教庁役人ではなく、中央修道院の者で」
「中央修道院とは、あの賢母ミネルヴァのお弟子様でいらっしゃるのですか!?」
娘は瞬時にセレンの手首を掴み取るや至近距離まで詰め寄って叫んだ。弾みでセレンの足裏が浮き均衡が崩れるが、娘はそれを別の動揺だと解したようで、目を輝かせたまま続ける。
「あぁごめんなさい、ミネルヴァ様を軽々しく敬称も無しにお呼びするなんて無礼なことを。でもミネルヴァ様と言ったらわたくしたち修道女にとってはあのミネルヴァ様、憧れの頂点にいらっしゃる彼の方しか!」
修道女、特に高位に立ち、神へ一生仕えるという誓いを立てた者は生来の名字を捨てる。そのためミネルヴァも今は名だけで通しているが、比較的どこにでもある名前なのは確かだ。だがケントロクスのミネルヴァは思慮深く卓越した説教と優れた後進の教育で教会自治区以外にも名が知れていた。
いずれにせよミネルヴァを尊敬しているというならそれなりに献身的かつ慈悲と理性を重んじる人間だろう。傲慢で猜疑的な様子を見せた州長より話が通じそうだ。あの州長の娘というのでやや不安があったが、その懸念は払拭された。
「ともかくここから早く退避しましょう」
ミネルヴァへの賛辞へ礼を述べると、セレンは娘の熱弁を止めるべく神妙に切り出した。
「橋が一つ壊れていました。雷かもしれません。私が渡ってきた橋もいつやられるかわからない」
セレンとは逆に、娘は「まあ」と目を見開いたがそれも束の間で、さほど切迫した状況とも思わぬようだった。
「なら行く途中で崩れてしまうかも分かりませんよ。それより雨が止むまでここに止まっていた方が。ここに居れば何とか凌げると思いますわ」
「そうはいきません。裏手の木が倒れる危険があります」
厳しい物言いに娘の顔に現れていた楽観が消える。ことは一刻を争う。セレンは矢継ぎ早に続けた。
「すぐ裏にある大木はかなりの老木でしょう。雷のせいか暴風か、いずれにせよ枝が一部すでに折れていました。幹にもひびが」
この修道院へ駆けてくる時に最初に目に入った古木である。建物の裏手に伸びた丈高い姿は確かに威厳があったが、低い位置にできた木の股のところでは痛々しく木の皮が裂かれて肌色の内側が剥き出しになっていた。二股になった枝の片方も失われている。風で煽られたのだろう。恐らくそこにあった太い枝葉が無惨にも修道院の屋根に覆い被さっているのが見えた。
強風に押されていつ太枝が建物の入り口を塞ぐか知れないし、さらに危険なのは残った古木の方だ。
「幹に亀裂ができていました。それもかなり大きい。いくら堅固な造りの修道院でもあんな大木が倒れてきてしまっては。それにもっと怖いのは落雷です」
ここに辿り着くまでにもたびたび稲光と雷鳴があったし、道中には雷に襲われ倒壊したと思われる家屋が散見された。この辺りの住民は避難済みというから人災は無かったと思えるのが救いだが、他にも幹を裂かれて横倒しになった木を飛び越えたとき、枝の先端から根本近くまで見事一直線に走った線が目に入って背筋が凍りついた。
この修道院一帯もいつ襲われるか分からない。半円を描いて修道院を囲む他の木々と比べて大樹の背は高い。老木に稲妻が落ちたらひとたまりもないだろう。
「分かりました。すぐに支度いたします」
娘の決断は早かった。セレンの説明を聞くとすぐに奥へ下がり、次に現れたときには修道女が外出する際の装いで鞄を肩から提げていた。父親とは異なる性格のようで助かったと安堵しつつ、セレンは娘に先立って扉を開ける。
「うわっ」
木戸が隙間を作った途端、もぎ取られるようにセレンの手から取っ手が離れた。続いて突風が頭の被り物を剥ぎ、一つ結びにしたセレンの黒髪が自らの頬を打つ。
踏み出そうにも風の圧が足を後退させ体を室内へ押し戻そうとする。馬も同じなのだろう。握った手綱が後ろへ引かれてそのまま転倒しそうになるのを堪えるだけでもかなりの労力だ。とても前へ進み出せそうもない。
だが、この娘は連れて帰ると約束したのだ。州長と、クルサートルに。
セレンは首から下がるサキアの玉を手のひらの内に包み込み、子供の頃から身につけている石もろともぐっと握った。水の珠の存在を改めて意識したからか、鞭打つような風は変わらぬ中で、叩きつける雨の音がふっと和らいだような感覚を覚える。
神の加護か。ならば——
「行きましょう。到着までこの玉を貴女に……」
水の力を制御する力を娘に託せば、少なくとも娘の身が受ける痛みは軽減されるはず。願掛けに近い想いで背後に立っていた娘に首飾りを差し出した。
娘は眼前で揺れる宝玉を数秒見つめると無言のまま手を玉へ伸ばす。小さな緑玉が娘の手首で揺れ、傷のない華奢な指の先がセレンの手に触れた。
相手の肌が持つ熱を感じたその瞬間である。セレンの体がふっと宙に浮いた。
いや、浮いたのではない。肢体を押し留めていた風圧がわずかに和らいだのだ。
「風、が?」
ともすれば風雨が口の中にも飛び込んで来そうだったのに、勢い込んで叫ばずとも労なく言葉が出る。一体これは何が起こったのか。
しかしセレンが突然の変化に頭も体もついていけずにいるのとは対照的に、目の前に立つ娘は朗らかな微笑みを浮かべた。
「神の護りですわ」
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