風と呼応(三)
街道を東へ行くほど頭上の空を雲が侵食していき、段々と茜色へ表情を変えながら傾きゆく太陽が、夕暮れの鮮烈な光の線を主張しながらも鈍色の層の後ろへ隠されていく。
空気はいつしか湿気を帯び始め、馬の蹄の跡と並んで水滴が地面に染みを作り、かと思えば瞬く間に大粒の雨が叩きつけてきた。荒々しい風に煽られた雨粒がけぶる中を躊躇なく突き抜け、二頭の馬は市門へ駆け入った。
***
クルサートルの馬は市門をくぐるなり迷いなく街路を中心部へ進んでいく。街に来るのは初めてのセレンにも、左右の建物の造りからどこに向かっているのか自ずから知れた。
この辺りは普段なら、飾り気のない壁と行政庁を示す紋が通る者に無駄口を閉じさせ、無用者を去らせるだろう。だが猛り狂う風の声が耳を圧迫し、雨粒が容赦なく叩くいま、役所の灯火は庇護を象徴し、嵐を抜けてきた者の足を引き寄せた。
扉の前まで迫った馬を急停止させるや鞍から飛び降りると、クルサートルは扉横の叩き金を力強く打ち付けた。
「これは……クルサートル様、ご無事でお着きになられましたか!」
鉄扉を開けて顔を出したのは背の低い初老の男性である。長衣に縫い留められた紋から市の役人だと知れる。
老人の手招きに応じると、クルサートルは後ろに立ったセレンの肩を引き寄せ風雨から庇うように屋根の下に入れると、口早に問う。
「州長、先に教庁の者が二人来ているはずだが彼らは」
「市民館が避難所になっておりますのでそちらへ。怪我人の治療や病人を優先して避難させています。しかし人手が足りない。我々も他県に応援要請の使者を出しましたがまだ着かず、救援の手が行き届かぬ場所が」
「すぐに対処します。そのためにもまずは中で話を聞かせてもらわねば。悪いが馬が入れる場所を」
州長の後ろから出てきた役人がすぐさま戸口へ動いた。彼が通れるようクルサートルは身を引き、代わりに敷居のところに立っていたセレンを自分より先に中へ入れる。
しかし秘書官の前に出たセレンを見るや、州長の顔に警戒が顕れた。
「失礼ですが、そちらの方は」
「ミネルヴァ先生の助手です。教会に関しては教庁の人間より詳しい」
詮議する眼差しを諌めるようにクルサートルが即答する。
「災害時に養育院の子供たちへは特別な配慮が必要だろう。彼女は学校で教師もしているし、子供の世話にも慣れている。ここも教員数は決して十分ではないはずだ」
早口で述べる中に咎める言葉はないものの、異を唱えることを許さぬ明らかな威圧感を受け取って老人はたじろいだ。ただ、秘書官相手とはいえこちらも州の長である。何か言いたげに口を半開きにしたまま数秒ののち、まだ疑心暗鬼を消さずに渋々ながら廊下の先を示した。
「ミネルヴァ女史の、ということでしたら、どうぞ。いや失礼。この世のものと思えぬほどあまりにも珍しいお顔立ちをしていらっしゃるものですから」
その返答にクルサートルが無言の非難を送ると、州長は廊下を先導するふりをして背を向けた。慇懃に振る舞うが内心は歓迎していないのだろう。
ケントロクスの外でセレンの銀の瞳を初めて見た者は大抵、あまりの美しさに好奇に目を輝かせるか、異物として忌避するかのどちらかである。ここでもか、とセレンは胸中で嘆息するが、顔には出さない。教会の使いで地方を回るとき、閉鎖的な小国ではよくある応対だ。セレンに限った話ではない。残念だが、異民族というだけで煙たがる人種はどこにでもいる。
「州長、彼女は」
「いいよクルサートル」
ケントロクス外でもミネルヴァの高名は知れ渡っている。修道院長の名を出せば相手が黙るからと、セレンもミネルヴァ自身から言い渡されていた策だ。ただその名を繰り返し利用するのはセレンの本意ではなかった。
それに、いま重要なのはセレンの待遇ではない。
「こちらの養育院は病の子の養生所でもあるでしょう。ケントロクスから薬を。本格的な医師の治療まではいきませんが、多少、医学の心得はあります」
相手がこちらを見ていなくとも、背筋を伸ばす。セレンは州長の背に向かって頭を下げた。
「教えてください。修道院と養育院の方々も市民館に避難されていますか。子供たちの精神状態も先生方の体力も心配です」
ミネルヴァが幼少より繰り返し述べていた。最も有効な方法は、修道院長の名よりもセレン自身の態度であると。外見に惑わされる人間をまともに相手することはない。ただこちらの誠意を受け取らせよ。
——そうすれば、一番必要なところへあなたの想いが届くはずですよ。あなたの綺麗な瞳の色には、綺麗な力があるのだから。
「すぐに援助に行かせてください。微力かもしれませんが、役立たずにはならないはずです」
振り向いた老人の懐疑的な視線を真っ向から受け止めた。
老人はセレンを検分し、肩から下げた革鞄に視線をずらし、そしてセレンの背後に立つクルサートルを窺った。閉じた扉を打つ雨音は激しさを増し、その合間に雷鳴が轟く。
「州長、救援に人が割かれているなら孤児たちの面倒になど到底手が足りていないだろう。大人の焦りは伝染する。子供らが不安になる前に動きたい」
言外に責を問うクルサートルの要請まで続き、州長もこれ以上とやかく言うのを諦めたらしい。形だけの謝罪を示すや奥を示しながら事務的に口を開く。
「養育院と市の寮制学校にも早急に避難指示を出しました。設備のいい私立校は待避所として使っていますが」
「修道院はどうなっています? 自分で動けない子もいるでしょう」
「優先して避難援助を出しましたから、大方はもう退避しています。教会修道院は私の娘が管轄ですから、采配も速やかに……」
落ち着いた州長の説明はしかし、けたたましい扉の音で遮られた。途端に豪雨の呻きが室内に入り込むと同時に、悲鳴に似た叫びが壁を震わす。
「州長! お嬢様が!」
冷淡だった州長の相貌が一瞬で崩れる。開いた扉から降り込む雨粒が床板を見る間に染めていく。
「お嬢様が避難所にいらっしゃいません!」
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