風と呼応(二)

 食事を終えて通りへ出ると、繁華街の昼の活気は去ったようだった。道ゆく人はまばらで客引きの声もない。仕事終わりの夕暮れ時までしばらくはのんびりと散歩できそうだ。

 喫茶店の後の予定は決めていなかったのだが、フィロが目当ての小物売り屋があるというのでセレンも付き合うことにした。閑散とした繁華街をさらに中心に向かって進む。

「セレンも知っていると思うわよ。去年、市場通りの角に開いたお店」

「ああ、分かるかも。軒先の屋根が赤と白の可愛らしい感じの」

「そうそれ。休日はいっつも混んでるけど平日の昼なら——」

 言い終わらないうちにフィロは突然言葉を切った。理由を聞くまでもない。後方から激しい馬の嘶きが聞こえてきたのである。

 振り返るとちょうど馬が角を曲がって二人のいる道に入ってきた。数は三頭。それぞれにつけられた馬具には教庁を示す天秤と四神を示す四つの色。騎乗する人物の姿形は遠目からでもよく分かる。

「クルサートル!」

 セレンが叫ぶと、先頭の馬の背で手綱が引かれた。高速で馳せていた馬は即座に脚を緩め、砂埃を抑えて二人の目前で見事に停止する。 

「どうしたんだ」

 手綱捌きこそぶれがないが、間違いなく非常事態である。クルサートルは滅多なことでこんな荒々しく馬を駆けさせる人間ではない。平静を欠いていることは顔を見れば明らかだ。

「しばらく教庁を空ける。留守中の教会関係のことは管轄官に詳しい話を聞いてくれ。ミネルヴァ先生を頼む」

 少なくとも表向きは常に冷静な面しか見せない彼がここまで焦りを露わにするまで余裕を失うのはほとんど見たことがない。その緊迫した顔を目にした途端、細い針が刺すような痺れが背中に走る——つい数日前に、同じ感覚を覚えた。

 掴まれた肩の痛みが瞬時に蘇る。

「何があった」

 理性を保つのすら危うい異常事態が起きている。ごまかしを許さないセレンの目に捕えられ、今にも再び駆け出そうとしていたクルサートルが馬上で固まった。

「何があった、クルサートル」

 重ねられた問いに碧の目が揺らいだ。逡巡は数秒もせず諦めに変わる。

「……アナトラで豪雨と河川氾濫だ。中心街の家屋が倒壊。役所含め教会もいくつか被害に」

「孤児院は!?」

 アナトラといえば東の要所であり、歴代統治者の信仰深さと自由州として国家を成したという立場ゆえに、近隣諸国から流れた者も含めて数多くの孤児や身寄りのない者を受け入れている。ケントロクスと同様、まだ働けない小さい子供たちの住まいを提供しているのは教会付属の孤児院だ。

 基本的に独立国は自国の問題を他国に持ち込まない。だが中立国なら、ある条件下で教会自治区に支援要請を出せるし、ケントロクスから事前通告なしに入国できる。

「クルサートル、私も行く」

 ある条件――すなわち、教会付属孤児院及び診療機関である養生院の甚大な被害だ。

 クルサートルは形のいい眉を顰めると、セレンの視線から逃げるように顔を逸らした。

「だから言いたくなかったんだ……」

 セレンの性格からして黙っていられるわけがない。自分と孤児たちを重ねてしまうのは簡単に予想がついた。

「アナトラの修道院ならケントロクスから派遣した修道士もいる。教会なら彼らと我々だけでも」

「中立国から要請が来るのは修道院勤務者すら被災した時だ。現地修道院の一部は原則男子禁制だろう。私ならクルサートルの代わりになれる」

 非常事態なら男性も入れようが、通常と異なる点は少ない方がいい。普段は他者の反論を許さぬ弁舌で相手を言いくるめるのがクルサートルだが、こういう時に嘘をつき通せない男だ。正論に口を噤み、是とも非とも言わず馬上から見下ろすままである。

 だが後ろについた教庁役人が、時間がないと言いたげに馬を鳴かせた。仕方なくクルサートルの口が再び開く。

「情報があまり来ていない。危険の程度が分からない。だから」

 短く切りながらクルサートルは表情を厳しくする。セレンをここに留めおこうと口実を探しているのは明白だ。

「セレンはミネルヴァ先生を」

「ミネルヴァ先生にはあたしがついてるわよ」

 案の定か、とセレンが唇を噛んだのと、涼しい声が割って入ったのが同時だった。咄嗟に振り向くと、当の本人は声と同じく涼しい顔で馬上を見上げている。

「大事な親友を傷つけたら許さないんじゃなかったのか」

「ええそうよ。だからしっかり守りなさいよバカサートル」

 苦いものを含んだように半眼を向けられたというのに、フィロの切り返しは辛辣である。

「それにあたしが傷つけるなと言っているのは物理的な話だけじゃない。精神的なことも言ってるの。セレンの性格は分かるでしょう」

 同意を求めるのではなく確信に満ちて、フィロはセレンの顔を見やった。本人よりも周りの方がよく分かっているとはこのことだ。

 被害が広がるのを知りながら何もせずにいる方が、体に負う傷よりもずっと烈しい痛みを伴ってセレンを蝕む。

 昼下がりの穏やかな太陽が地面に黒々とした影を作る。舗装の行き届いた道の石は目立った傷もない。この長閑な景色からは想像もできないが、この道は時を同じくして泥水に汚され飲まれる道へ繋がっている。

 地面に描かれる影が後ろへ振り返る。

「先に行っていてくれ、すぐに追いつく。一人は教庁へ回ってセレンの馬を教会へ」

 月色の瞳の乙女とクルサートルの関係を知らぬ者はなく、総帥秘書官の決断に是非を唱える権限もない。指示を聞くなり二人の騎手は馬の脚を命じられた方角へ向け、即座に蹄の音が街路に響き渡る。

「後ろへ。準備の時間はほとんどない。飛ばすぞ」

 固まっていた四肢が熱を取り戻す。騎乗のまま差し出された腕を取り、セレンは靴底を石畳に弾ませた。

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