第七章 風と呼応
風と呼応(一)
昼下がりの緩い空気は、早朝の活気や夕刻の弛緩とは違う。一日の活動に意気込む力強さも仕事終わりの心地よい疲労感も無く、いくぶん怠惰な雰囲気を醸し出している。
ただそれは退廃というのでもない。午後の仕事に余裕の出た人々がほどよく緊張を解いた穏やかさである。とりわけ雨上がりの爽やかな空の下とあれば、適度な湿度と気温が気持ちをいっそう和ませる。
「このお店の前評判は嘘じゃなかったわね」
新店らしく開店祝いの花があちこちに飾られた店内をぐるりと見回し、フィロは批評家さながらに頷いた。
ケントロクスの市街中心は、教会の建つ地区とは全く異なる賑わいを見せる。昼過ぎ、しかも話題の店ともなれば優雅に休息を楽しむ客の歓談がさざめきのように店内を満たす。
店の奥に案内された二人も久しぶりにゆったりした時間を享受しようと来たわけだが。
「それ、本当に全部食べるつもりなのか」
若い女性に流行りの服と髪飾りで可愛らしくめかしこんだ友人と、その前に置かれた皿を交互に見て、セレンは苦笑いを禁じ得ない。
鮮やかな釉薬を使って草花が繊細に描かれた皿もフィロに似合ってこれまた可愛らしいのだが、その上には果物や菓子がてんこ盛りになり、清楚とか可憐とかいう言葉とはむしろ対照的な威風堂々たる見栄えである。
それにぶすりと銀器を刺すフィロも、小柄な身体からは想像できない旺盛な食べっぷりだが。
「当たり前じゃない。お店のいち推しだっていうなら試してみないと。このためにご飯抜いてきたんだし。それよりセレンはそんなでいいの?」
「これも結構な大きさだと思うけど」
本当なら「異常な大きさ」と言いたいところを控えめな感想にして誤魔化す。卓を飾る小花模様の布掛けや一輪挿しによく似合う平皿には、見るからに柔らかそうなきめ細かな生地に果物と泡立てた生乳が挟まれた菓子が載っている。生地の上と側面はこれまた真白く滑らかに覆われ、そこに金銀の粒状の砂糖細工や食用の花、果物の飾り切りなどが化粧を施す。
色鮮やかな生菓子は見た目だけでもため息を誘い、そこから味覚の満足も推し測れるのだが――
「私の手、広げたのと同じくらいないかな、これ」
「いまどきの喫茶店なら普通よこのくらい」
やや尻込みつつセレンは銀器を取り上げるが、フィロはさらりと言ってのけるとさっそく真ん中の焼き菓子に銀器を突き刺し、皿に散らされた果実の蜜煮をたっぷりつけてひょいと口に入れる。
「うんっ、こっちのも期待通り! お砂糖カリカリなのに甘すぎなくておいしーい」
満面の笑みの後、間をおかずに糖衣を纏った果物が一口で目の前から消えていく。よくそんな大きな口が開くな、と感心しつつ、セレンも一番上の砂糖菓子から攻め始めた。確かに味は見た目ほど主張が強くはなく、すっきりした茶によく合う。
「それで、しばらくは落ち着きそうなの?」
早々と皿の四分の一を胃の中に収め、フィロの空腹はやっと落ち着いたらしい。
「とりあえずは。今のところ、直近で頼まれているものは無いかな」
「ならいいんだけど」
蜜まで綺麗に舐めとった銀器を置くと、フィロは茶器に手を伸ばした。育ちの良さが滲み出る挙措は見るだけなら好ましいが、この大人しさがセレンの不安を倍増させる。
「セレンの仕事には理由を言えないようなのもあるみたいだけど」
やっぱり、とセレンは逃げ出したい気分になる。
「あたしはね、あの馬鹿秘書官がセレンを自分の良いように使わないかと心配なわけ。セレンにしてみればアレは恩人に当たるわけでしょ? それを利用して言うことを聞かせるなんてわけないことだし」
「確かに恩人は恩人だけれど、クルサートルは別に無理を押しつけてはいないし、私自身も希望して……」
フィロの静寂は噴火の前兆だ。火山活動の活性化を抑えようと、セレンは慎重に言葉を選ぶ。大抵は無駄なのだが。
しかし、セレンが言葉を切っても予想していた爆発がない。それどころか爆炎前の地鳴りすら感じられない。
どうしたことかと皿から顔を上げると、フィロは神妙な面持ちで切り崩した果物の山を見つめていた。
「セレン自身が望んでいるなら無理に止めたくないし、セレンがそれで幸せになるなら構わない。でもね、もしセレンが少しでも自分を殺してやっているなら許せないのよ」
店内の喧騒がどこか遠くに感じる。それくらいフィロの語り口は静かだった。
「だからね、お願いだから、過去の恩義とかそういうの関係なしに、セレンが信じることだけを信じて」
嘆願とも説教とも違う。友人が眼の奥に宿しているのは、切望だった。
セレンは礼の代わりに微笑む。
頼りにするものを全く持たずこの地に迷い込んだ少女を受け入れ、得体の知れぬ存在を大事に想ってくれる人たちがいる。
自分が行動する理由は、それだけで十分だ。
親友に笑みを向けられたフィロはたまらず相好を崩した。セレンの素直さを前にすると恰好つけようとしてもうまくいった試しがない。照れ臭さを隠すように、再び甘い魅惑の塊を攻略しにかかる。
二人して黙々と菓子を崩しては口の中へ運んでいると、周囲の賑やかな談笑を切ってまっすぐこちらに飛んでくる声があった。
「フィロ! なんだ、ここに居たのか」
声の主は誰かとその方に顔を向けると、市井で馴染みの若者が店員に軽く断りを入れながら、ひしめく卓の合間を縫って近づいてくる。
途端に、緩んでいたフィロの頬がきゅっと引き締まり、姿勢がぴしりと伸びた。
「店にいないからどこに行ったのかと思ったら、喫茶店で茶とは優雅だな」
「従業員に真っ当な休みを配分するには店主自らも休める余裕のある状況を作るものですわ。何か御用かしら」
相手と目を合わせようとせず、フィロは長い匙をくるりと回してクリームを掬い上げる。
対する若者の方はあからさまに冷たくあしらわれても引く気配はない。
「そろそろそのわけわからない怒り方やめてくれないかなぁ……前に話していた宝飾の商談、取り付けられそうだからさ。ややこしくなってた水晶細工の工房とも」
「仕事の話なら店でしてくださる? 今なら
ツンと鼻を高く上げ、全く相手を見ずにフィロは言い放つ。完全拒否に早くも若者は折れ、今度はセレンの方へ情けない顔を見せる。
「セレン頼む。こいつどうにか」
「あぁらわたくしの親友を巻き込むのはやめていただけないかしら。用はお店にどうぞ。邪魔をしないでちょうだい」
絵に描いたような冷徹なあしらいに、若者は同情を求める視線をセレンにやるが、苦笑を返すしかない。この状態のフィロをどうにかできる人間がいたらこっちが聞きたいくらいである。
これ以上は無駄だと踏んだのだろう。若者はまだ未練を表しながらも「いつまで続くんだこれ」とかぼやきながら足取り重く去っていった。
「いいの? 行かせてしまって」
完全に若者の姿が見えなくなってから、セレンは控えめに切り出した。こうした状況なら過去にも何度も出くわしている。
「私も恋人同士の喧嘩に口出す野暮はしたくないけど、結構こたえていたみたいだし、向こうが悪いならもう反省してるか」
「反省してるのを認めてあげちゃったらケロッと居直るからだめなのよ! 猛省するまでこっちから折れるもんですか」
先ほどセレンを憂慮した母のような雰囲気はどこへやら、フィロはざくざくと果物の下にあるこんがり焼けた生地を無造作に崩していく。あまり突っ込むと今度はこちらに火の粉がかかる。経験上、大抵は向こうが下手を打ってフィロの逆鱗に触れるのだから取りなそうにも向こうがどうにかならない限り無理である。
気の毒だなと同情はするが、痴話喧嘩は当事者以外、口を噤むのが吉だと以前に教会の先輩教師から聞いたことがある。
皿に残った甘味を次々と口に運ぶフィロに倣い、セレンも黙って巨大な菓子の攻略に専念することにした。
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