逸る鼓動(三)

 数秒前とは打って変わって、クルサートルが鋭く問う。その声音は冷え切り、返答を待つ間も与えず質問が畳み掛けられる。

「これは衛兵が警備する保管庫か何かにあったのではなかったのか? まさかメリーノ本人が身につけていたと?」

 セレン自身は呆れるくらい鈍いが、あのメリーノが一人の女性に執心しているとの噂はいまや有名だ。当初から珠が狙いだったかはわからないが、いずれにせよあれだけの公女を力づくで娶る人間である。セレンと接触したら身の危険もありえると承知はしていた。

 クルサートルから告げてはいないが、今回セレンを男装で潜入させたのはこの可能性を回避するためもあったのだ。衛士に扮してしまえば、メリーノから閨事の相手として見られることもない。しかもセレンの頭脳と身のこなしがあれば、珠も保管場所から密かに取ってこれるだろうと。

 だが、いま眼前にいる幼馴染の様子はどうだ。

「セレン」

 答えはない。

 セレンの喉は知らぬ間に干上がっていた。空気がうまく肺に届かず、膝の上に置いていた手はいつしか震え、組んだ指で抑えようとしても止まってくれない。

 まるであの夕暮れの部屋に戻ってしまったかのように体が言うことを聞かない。

 耳元にまとわりつくような恍惚とした声と、全身を束縛する飴色の瞳。

「セレン、どうした? 真っ青だぞ」

 じっとりと熱を帯びた視線が、頭の上から足先までくまなくセレンの体を舐め回し、直に触れてもいないのにひたと肌を這う。抗うことを許さず皮膚に吸い付き、そこから身体の中まで浸透し、冒されていくような。

「セレン、へい……」

 パン、と乾いた音が空気を切る。

 伸ばした手のひらを打ち払われ、クルサートルは唖然として固まった。だがセレンは謝罪をすることはおろか、自分を見ようともしない。

 いつもなら毅然としているその顔は強張り、クルサートルの手を振り払った手は身を護るように自身を抱き、震えている。

 稲妻のような衝撃が体を撃つ。

「セレン! メリーノが何をした⁈」

 寝台に駆け寄り、瞳を隠そうとする手を止める。しかし掴んだ細い手首が示した拒絶に衝撃は怒りに変わった。

「奴に何をされた?」

 無理矢理こちらに向けさせた顔は固まり、銀色の瞳の奥に測り難い恐怖が浮かんでいる。

 この瞳には覚えがあった。遠い過去、まだ幼い頃の記憶が鮮明に甦る。

 反射的にセレンの肩に掴みかかる。

「なぜ黙る⁈ 答えろセレン、一体何を……」

 その時、ばたんと大仰な音が空気を震撼させ、クルサートルの言葉を遮った。見れば部屋の入り口にミネルヴァがにこやかに立っている。

「クルサートル」

 しかし、その眼は全く笑っていない。

「退場」

「でも先生」

 するとミネルヴァは、にこりとしたまま親指を廊下へくいと向けた。この上なく柔和な笑みであるにもかかわらず、否を許さぬ威圧感は無視できない。

 仕草だけでクルサートルの口を封じると、ミネルヴァは続けた。

「他をとやかく言える態度ですか。出なさい」

「しかし、まだ話は終わって」

 間髪入れずにミネルヴァは続ける。

「あなたは台所でご飯の準備でもしていなさい。あとは葉物を切って煮物に火が通れば味付けをするだけで終わりだから」

「だけってそれはかなり……」

「できないなんて言わせませんよ。私はあなたが子どもの頃から叩き込んだはずです」

 有無を言わせぬ圧をもってミネルヴァはクルサートルを一瞥すると、もう一度、満面の笑みを作って指を扉の外へ向ける。こうなったら、いくら教庁の高官だろうと逆らえる人間は少ないだろう。

 まだ何か言いたそうなクルサートルを閉め出すと、ミネルヴァは呆然としたままのセレンに向き直る。今度は裏のない慈愛に満ちた笑顔を向けた。

「仕方がないわね、あの子も」

 ミネルヴァはセレンの横に腰を下ろした。

「あなたが話したくなければ聞かないことにするわ。でもね」

 銀色の瞳を覗き込みながら、ミネルヴァは膝の上に置かれたセレンの手の上に自分の手を重ねた。皺の多い老婦人の手のひらは温かく、さっきまでの震えを止めていく。

 ひと呼吸おいて、ゆっくりと言葉が続く。

「あなたは弱音を吐かなくて、とても偉いと思うけれど、怖いと思うのは悪いことではないのよ」

 暗かったセレンの瞳が、意外だと瞬間的に見開かれた。その様子にミネルヴァは目を細める。

「当たり前でしょう。人間だもの。それよりも、怖いという思いを知らない方がよほど恐ろしいわ」

「知らない方が……」

「怖さを知らなければ、他人の恐怖をおもんばかってあげる心は持てません。それに自分が何に恐怖を感じるのかを承知しておくことはとても大切です。そうでないと、気付かぬうちに自分が壊れてしまいますよ」

 優しい手の温もりが、固くなったセレンの手指を包み込む。

「怖かったわね、セレン」

 色の白いセレンの頬にそっと触れてから、ミネルヴァはまだ強張っている細い体を抱擁した。

「頑張ったわね。大丈夫ですよ。ここはカタピエではなくあなたの家です。セレンはもうここに居ます」

 腕の力は強くはないが、しっかりとセレンを支える。呼吸と同じ速さで背中がとん、とん、と叩かれた。

 喉に滞っていたしこりが溶けて、ようやく息を吹き返すような感覚がある。

「先生」

「なあに?」

「ありがとうございます」

 セレンは緊張のほぐれた腕を婦人の背に回し、ぎゅ、と抱きしめる。

「セレン、私しかいないもの。我慢せずに泣いてもいいのですよ」

「いえ」

 明瞭な答えは、何かに耐えているのではなかった。

「大丈夫です――もう怖くなくなりました」

 本当に? と問うミネルヴァに確かに明るさが戻った返事がある。

「泣くのは、別の時でなければいけない気がして」

 呟くようだが、その響きには芯があった。

「やっぱり、セレンはすごいわ。私の自慢です」

 顔を見合わせずとも、互いに笑んでいるのが分かる。部屋の中は、いつしか雲間から現れた月の光に柔らかに照らされていた。

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