風と呼応(四)
扉が開いた直後、猛り狂う風雨の轟音が耳を圧迫する。だがそれをも掻き消さんばかりに役人は叫んだ。
「州長! お嬢様はこちらにはいらっしゃらないのですか!」
「教会から、来て、いないだと?」
州長は役人の叫びに撃たれたようにその場で固まったが、畳み掛けられた質問がすぐに老人の呪縛を解いた。だが先ほどまでの慇懃な態度はすっかり抜け落ち、唇は震えて冷えていた声音はうわずっている。しかし役人の方も州長の反応を慮ってやる余裕はなかった。軒下にいてもなお当たる雨粒から腕で顔を庇いつつ、玄関口の来訪者も目に入らぬ勢いで続けざまに報告する。
「先に市民館へ来た修道士によれば、他の者をお見送りになられて最後に出ると! しかしもう最後の一人も着いて」
その修道士が娘と共にいなかったからこの館に来たのだと分かり、衝撃で呆けていた州長の口調が途端に激した。
「誰か迎えには行かせなかったのか!」
「それが救援へ向かった者からの通達で教会にはいないと言われ……ですからこちらに」
「他は? 修道院はどうだ!? 手を尽くして捜索を」
「そう出来ればやっておりますが人が足りないのです! まだ患者が残る病院への救助すら……」
「失礼」
豪雨の猛勢に消されまいと声を張りあげる二人の間を長い腕が隔てる。両者が反射的に口を閉じた隙に、役人は背中を押されて玄関の中央へまろび出た。
「少し冷静に順を追って話してもらえますか。御息女は修道院にお勤めですね」
役人を中へ入れたクルサートルはセレンに戸を閉めるよう仕草で示しながら、州長に確認した。
「え、ええ。ここの修道院と教会の統括に。昨日は教会学校で授業が」
雨風の声がセレンの閉めた扉の向こうに遠のき、いまやクルサートルの冷静な質問は明瞭だ。それにつられたのか、血が上った州長の頭にも落ち着いて受け答えする理性が戻ったらしい。
「嵐が始まった昨日の時点で御息女がいらしたのは教会学校の方でしょう。普段ならその時間帯、修道院に人はいるのですか」
州長は答えに詰まり、クルサートルの目から逃れるように役人へ目配せする。居丈高になったものの、常日頃教会や教育施設の状況把握にまで至っていないのに後ろめたさがあるのか。
水を差し向けられた役人は即座に首を横に振る。すると州長が性急に後を継いだ。
「ならばあの子が修道院にいるはずはない。なんてことだ。まさか土砂崩れにでも巻き込まれたんじゃ……」
「学校は川よりこちらだろう。役所までの道に土砂崩れの危険はないはずだ」
「しかし、それならなぜまだ着いてないのですか!」
落ち着けと宥めようとも州長はすでに正気を失い、今にもクルサートルにくってかかる勢いである。ほとんど叫びながら娘の安否に対する懸念と役所の不備を訴えられ、役人も返す言葉なく身を縮こまらせた。
このまま押し問答をしていても埒が明かない。まずは市民館で修道士や教員の話を聞かないことには。
クルサートルは一つ息を大きく吸った。
「こちらの主教会付き修道院は女子修道院でしたね」
開きかけたクルサートルの口が止まる。男たち三人の視線がセレンに集まった。
「アナトラには聖物があるかと思います。そちらは修道院に?」
「え、ええ」
州長より前に役人が答えた。
「普段、そちらを教会へ移すことはありませんか」
「無いはず、ですよね? 州長」
わけがわからないと呆然としていた州長が戸惑い露わに肯定を示す。それを確認すると、セレンは小さく頷いた。
「それなら、ご息女は修道院にいらっしゃるはずです」
「修道院に? 馬鹿な。なぜわざわざ川向こうへ」
市を流れる川を挟んで、教会は川のこちら側にある。付属学校への生徒の通いやすさや事務的な連絡の利便のため、住宅や行政機関が集まる市の中心に近い方が良いのだ。
一方、修道院は神への祈りに専心する場である。アナトラでは、人の生活から隔てられた場で周囲の邪魔なく神へ心を捧げるのを信条としていた。
したがって修道院は川を渡って森林地帯に向かう道に在る。つまり教会に向かえば避難所からは離れるということだ。
道理に合わないと州長は半ば責め口調になる。
「教会の皆を放って娘が戻るはずがないでしょう。あの子はここの教会の責任者になるのですぞ!」
「だからです」
短い答えに乱れはない。そこはかとない圧に州長は息を詰めた。
「聖物は教会にとって最上の至宝であり、それを失うとはつまり神の加護を失うことになり得ます」
クルサートルに促され、セレンは先を続ける。背中の扉の向こうではまだ風雨が煩いが、それを忘れさせるほどセレンの声は皆の意識を集中させた。
ミネルヴァから教わった教会則は、老婦人の声とともに頭の中に澱みなく流れる。
「聖物の有無は教区・宗派によって異なりますが、アナトラは神の加護を『
教会を統括する責を身に負った者であれば、その務めを全うすることこそ何にも代え難い行いだ。
セレンは実際に聖物を目にした経験はない。教庁を有するケントロクスは特定の物質を信仰対象としていないからだ。しかし教会自治区ではなく、特定の人物を国家の長に定めた国では、何かしらのモノが依代になって神の存在が国の権力を前に霞むことがないようにしている。そして聖物の保管は多くの場合、国の長ではなく当国の教会責任者に一任される。
「ご息女が責任感高くていらっしゃるのならば、間違いなく修道院へ聖物を取りに戻られたはずです」
少なくとも、ミネルヴァだったら迷いなくそうするはずだ。
淡々と語るセレンに州長は露骨に眉を寄せた。
「だが聖物といっても所詮はモノですぞ。そんなものに命かけるなど馬……」
「いいえ州長。姿形というのは我々が意識する以上に人の心境へ影響しますよ」
セレンと州長の間にクルサートルが一歩身を動かす。
「市民は神の恩寵の現れだと、目と手で感じるものがあってこそ安心もすれば……自らの経験にない姿だからという理由だけで異質と避けようともする」
冷えた感情を含んだクルサートルの一瞥は州長を黙らせるに十分だった。流石に先の自分の態度を諌められたと分からぬほど愚鈍ではない。ただ相手はケントロクスの総帥秘書官である。若造が、と睨み返すに留めるしかない。
だがクルサートルは無言の反抗を無視して、まだ何か言いたそうな老人に反論の隙も与えず役人へ指示を出す。
「あなたは急いで市民館へ戻ってください。我々とは別にケントロクスの役人が行っていますので、避難した市民の対応と救援を要する場所等の指示を彼らに。じきにこの近辺の教会自治区からも援助が来るはずだ。すぐに私もそちらに合流する」
「あなたもって……それでは修道院は」
淀みなく述べられる用件に役人は戸惑いがちながらも頷いていたが、最後の宣言には大きくうろたえを見せた。
しかしクルサートルは動じる素振りもなければ、それどころか整った顔には微笑すら浮かぶ。この非常時にあるまじき余裕である。
「それは心配ない」
彼をよく知る者が見れば、異様に見える自信の理由は聞かずとも知れよう。現に、よく通る
「私が迎えに参ります」
晴れ渡った空に浮かぶ月のように、その澄んだ瞳には不安の影もない。
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