偽の誠意(三)
背中に受けた冷ややかな声音に、もう少しで箱に触れようとしていた指が宙で止まる。全身が粟立ち、一瞬思考が止まった。
「主人の部屋に無断で立ち入るとは、我が城にとんだ無礼者がいたものだ」
絨毯を通して、靴が踏みしめる床の振動が伝わる。近づいてくる声には温情のかけらも無い。鏡台に映るメリーノの顔には笑みが浮かんでいるが、その眼はいまにも獲物を
短剣を後ろ手に握り、セレンは膝をついたまま振り返った。咄嗟につばを引き下げた帽子の下からメリーノを睨みつける。
「この間採用した新人か? 迷い込んだにしてはたちが悪い」
スラ、と軽い摩擦音と共に長剣が抜かれた。磨かれた銀の刀身が夕の茜色に染まる。
その鮮烈な色が宙に光線を引いた。静止した空気に突風が斬り込む。
「ほう……」
制帽が音もなく絨毯に落ちる。鏡の中で漆黒の長い髪が流線を描いた。
「おまえの方から訪ねてきてくれるとは。嬉しいじゃないか」
今度は嘘偽りのない愉悦を目に湛え、メリーノはセレンを見下ろしまじまじとその顔を眺める。視線をわずかも動かさず睨みつけられていても、一向に気を害した様子はない。
むしろ昂る悦びを抑えようとでもいうように、ゆっくりと踏み出した。
「しかしその服はおまえには似合わないな。せっかく私の居所に来るのならそのような装いで人目を欺かずともいいものを」
先とは一変して甘やかな声音が耳を撫でる。
「むしろ、むさ苦しい男どもの中に居た状況を想像すると気が気ではない。それに」
あと一歩の位置まで来ると、メリーノは目の前で跪くセレンの全身を目線で舐め回してから妖しい笑みを浮かべ、長剣の切先を前へ伸ばした。
「部屋を間違えたようだ。おまえが私を待つなら、こんなところではなく寝室であろう?」
冷えた鋼がセレンの肌に触れる。だがそれでもなお、桜色の唇は固く引き結ばれたままである。
空間に満ちていく無言の圧を先に崩したのはメリーノだった。
「私の持つ至宝で自らの身を飾り、迎えてくれるという心は実に喜ばしい」
ツイ、と剣が傾けられ、セレンの顎を上げさせる。
「だが、おまえの美しい白肌を余すことなく我が手で愛でるには、そんなものはたいそうな邪魔になるが?」
嫌悪も怯えもなく、月色の瞳は動かない。メリーノはそのさまを前に目を細めた。射るほどに強く自分を見据えるのが満足というように。
無言のまま喜悦を示した形のいい口元が、まぁでも、と言葉を紡ぐ。
「おまえの素肌をじっくり味わいながらその邪魔な飾りをこの手で直に除いていってやるのも悪くない……そう急くこともあるまい。触れるモノが私以外に無くなるまで存分に時間をかけて、ひとつ、ひとつ、な」
吐息混じりにになった声が恍惚を帯びる。反射的に剣の触れる肌が震えた。ついぞ感じなかった汗が額に滲み、喉がひくりと鳴る。
柄を持たぬ方のメリーノの手指が、セレンの方へ緩やかに差し出された。
一瞬の後、セレンの体はもはや鏡には映っていなかった。
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