深き友愛(四)
朝日が昇ってすぐ、薄靄の中で街並みを眺めていると、まるで極薄い布を一枚隔てて世界を見ている気分になる。まだ夢のうちにあるかのような時分、教会の聖堂で祈りを行うのは修道士のみである。
「また日が昇りました。朝日降り注ぐ今日も、万物を統べる天の大神に恥じぬ行いを続けますことをここに誓い、」
「等しき命は等しき関係にあり、神のもたらす自然の恩寵に感謝と敬意を。真心からの行いに四神の加護がおりますよう」
ミネルヴァの祈祷に修道士たちとセレンが応唱する。誓いは一日の始まりの戒めである。
朝課が終わればもう朝靄が晴れて空気が澄み始め、街路に人の出が増えてきた。それぞれの職務へと教会を出ていく修道士たちを見送るうちに、ケントロクスの朝市へ向かう住民や官公庁へ仕事に出る勤め人も足繁く教会前の道を通り過ぎていく。
今日は教会学校も休校である。祈りに参じた修道士らが全て帰ったのち、ひとり教会の庭で水やりをしていたセレンは、門の前の人影をみとめて桶を下に降ろした。
「フィロ? どうした、こんな早い時間に」
立っていたのはセレンと歳の頃が同じ若い娘だった。ケントロクスの市街で仕立て屋を営む家系の出で、この地方によくある濃茶の髪を肩口で切り揃え、頭に小花模様の細布を回して飾っている。いかにも町娘という明るい色の流行り服はさすが仕立て屋の娘である。
しかし可愛らしいいでたちに似合わず、娘は腕を組み仁王立ちでセレンが来るのを待ち構えていた。引き結んだ唇を動かそうともせず、浅葱色の瞳で親友を凝視したままである。
「ミネルヴァ先生に用事? 先生ならいま市場へいらしているから……」
「あのねぇ、セレン」
門が開くなり、セレンの両頬が小ぶりな手のひらでぎゅうと挟まれた。長身のセレンを見上げながら、フィロと呼ばれた娘は唇を尖らして眉を吊り上げる。
「聞いたわよ。戻ったと思ったらまた数日間、ケントロクスを空けるんですって?」
質問されるものの、両手でぐいぐいと頬を上下に押し動かされてはセレンの方も答えられない。だがフィロは当初から答えを求めているわけではなさそうである。
「せっかく今度一緒に新しくできたお店に甘いもの食べに行こうと思ってたのに。学校がお休み期間に入るからいい機会だと思ったのに。あたしのセレンを奪うなんてひどいわ総帥秘書官は」
そう吐き捨て、一瞬、押すのをやめたと思ったら、今度は右手で頬をぺたぺたと叩き始めた。
「何を考えているのかしら。先約はあたしの方でクルサートルが後出しじゃないのよう」
ついには手のひらで押すのをやめて指で頬を突っつき始める。あまりに強い力なので、このままでは指の跡ができそうだ。
セレンはたまらずフィロの手首を掴んだ。
「悪い。フィロとの約束があったのに、また外に行くことになってしまって。埋め合わせはするから」
真正面から目を見て言われて、フィロはようやく動きを止めた。そして一つ息をつくと、先ほどまでの子供じみた抗議から一転、今度は不安と諦念をないまぜにして顔を曇らす。
「分かってるわ。仕事だものね」
フィロは頬から離した手をするりと下げる。そして頷くセレンの脇を抜けると、門扉の横に立つ石柱の基盤に腰を下ろした。
「今度も『詳細は言えない重要な極秘任務』なんでしょう」
「クルサートルから聞いたのか」
次に下された指令——ケントロクス外での任務も、またカタピエへの潜入だった。
テッレでの一件のあと、教庁はカタピエの動向を睨んで次の一手を検討していた。調査員によればセルビトゥの公女を奪われて以降、新たな輿入れはないというのに宮廷の衛士が増員されているという。
守備する対象なくして宮廷の柵を高くする必要はない。そこをクルサートルは怪しいと睨んだ。
自分が屋敷に難なく入りこんだのを警備の甘さと判断した可能性もあるのではないか——そうセレンは意見したが、クルサートルにあっさり否定された。「セレンの侵入が原因ならむしろもっと手薄にするだろう」と、セレンにはわけのわからない理由で一蹴したのである。
しかし別の理由——珠の警護——があるならば、早急に是非を確かめなければならない。裏で可能な調査段階は過ぎた。
「あまり遅くならずに戻ってくるから、そうしたら約束のお茶に行こう。帰ってきたら一番初めに」
実地で暗躍するとなれば大抵はセレンに一任される。フィロには悪いが、他に代わりがいないのだ。
「今度の仕事も危険はないんでしょうね」
当然といえば当然の懸念なのだが、セレンは無言で苦笑するしかない。
普通なら単独潜入は危険と見なすだろうが、クルサートルの考えは別だった。複数で入った方がカタピエ側に勘繰られやすく、身の軽いセレンが単独で動くのが得策だと。
具体的計画を練った時、テッレでメリーノがセレンに一指も触れられなかったならば、少なくともセレンなら危害を加えられる可能性は低いとクルサートルは断言した。むしろ別の心配があると付け加えて。
それが何かを尋ねても適当にあしらわれるだけで教えてもらえず、策を取れば問題ないと片付けられるだけだった。
少々気になるが、これまでクルサートルの読みが大きく外れた例も思いつかない。
「危険は無い、と思っていい……のだと思う」
「何よその歯切れの悪い返事は」
むくぅ、とフィロは膨れる。
「まあね、セレンは多少大変なことだろうとあの秘書官相手じゃ断れないでしょうけど。でも、あんまり忙しくてこんな綺麗なセレンのお肌が荒れたり傷ついたりしたらと思うとあたしは心配で心配でしんぱ……あら」
今度はセレンの白い頬をさすさすと摩り始めたフィロだが、滑らせていた手指が急に止まった。そして次の瞬間にはセレンの耳たぶの下に手のひらを当てがい、まじまじとそこを見る。
「セレン、これ、は」
フィロの目が食い入るように凝視している対象に気がつき、セレンは反射的に耳を覆って身を
その勢いがあまりによすぎて、手を当てがった右の耳飾りが外れる。
「あ、うわ、待って」
飾りが宙に踊った。繁った草の中にでも落ちたら見つからないかもしれないし、見つかっても汚れてしまうかも——そんな恐怖で全身が冷たくなり、俊敏な身体能力を総動員して体を捻りながら手を伸ばす。
丈高い草むらに紛れる前に飾りを受け止める。しっかりと握りしめたのを確認し、安堵して顔を上げたらフィロの絶望に満ちた形相が前にあった。
思わず何も聞かれていないのに抗弁してしまう。
「いや、これは、なんでもな」
「はあぁ? これは一体どこの誰がこんな物をセレンに」
「え、あ、この間……」
「分かってるわよあれしかいないわよセレンがそんなものを身につけるなんて」
自分で質問をぶつけておきながら自己完結すると、フィロはセレンの当惑にもお構いなしに顔を覆って罵り始める。
「あの馬鹿秘書官ったらなんてことを……一体、どんな風が吹いてこんな行動を起こすわけ? うわぁ信じ難い愚の骨頂。あたしのセレンが穢される」
「え、これ、私にはやはり似合わないかな」
「ぜんっぜん!」
悲鳴にも似たフィロの一言がセレンの動きを停止させた。そこまで断言されるほどかと、予想以上の衝撃に反応すらできずにいると、フィロは大きく息をひとつ吸い、言葉と一緒に勢いよく吐き出した。
「似合うから腹が立つ! しかも
「クルサートルはただ土産だからと……そんな大した意味は……」
なぜか義務感に駆られて弁明しながら、セレンの耳に熱が走る。
雨で冷えた宵の空気の中、柔い耳たぶに触れた吐息が蘇る。ごく短い間だったのに、あたかもゆっくりと時をかけて撫でられたかのような、身体の内までなぞられるような生々しい感覚。
それが鮮烈に立ち戻ってきて、セレンは思わず耳を掴んだ。するとフィロは目ざとくその仕草を認めて、恨めしそうに虚空を睨みつける。
「なんってことを……許し難い……セレンの純情な性格を知っていながらこの仕打ち……あたしのセレンが犯される」
「お、犯されるってそんなクルサートルは私には本当に何も……」
「だからタチが悪いのよ!」
あまりに過激な言葉にセレンは赤面するが、その反応がフィロの憤りを呼んだらしい。今日一番の金切り声をあげるや、わなわなと震え始めた。
「どんな渡し方をしたのか手に取るように分かるわ……セレンのその反応……いやらしい! それでいて女の子扱いするのは中途半端に違いない……手を出すならきちんと手を出しなさいよ……」
呪詛のように延々と話す様は悪鬼を想像させる。言葉の端々にセレンが恥ずかしくなるものもあるのだが、口を挟んだらなぜかさらに怒りを増しそうだ。
もはや止まりそうにないフィロの激昂をどう収めようかと考えながら、セレンは密かに決意する。
クルサートルが提案した今度の計画は、友人には黙っておこう、と。
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