輝く幻影(四)

 すらりと立つ長身と短髪。逆光でセレンの方からはよく見えないが、やや笑みを含んだ声は聞き間違いようもない。

「こんなところで会えるとは。神の導きか?」

 どこか嬉々とした調子に神経が撫でられる。テッレとカタピエは近い。少なくとも建前上、教会自治区は万人に開かれている。帰郷の行路にテッレ横断を選んだか。

 理由はどうあれ、正体が露呈しているのであれば知らぬ存ぜぬを言っても仕方ない。セレンはすぐに動けるよう姿勢を整える。

「しかしあなたが聖堂に寄るとはな」

「私は神を信じないと言った覚えはないよ。それなりに信心深い性質たちだと見直したか?」

 疑問を投げかけてはいるが答えを求めてはいない。単にどう反応するか面白がっているとしか思えない。セレンは侮蔑をこめて吐き捨てる。

「娘たちを国から奪い続けたあなたが、神への信仰を語るとは笑わせる」

「それはそうかもしれないな。おまえが神の娘と言うならそう言われても仕方ない。現に私はいま、ここに来て一人の娘を手に入れたいという望みに囚われている」

 言葉の中に愉悦を感じ、セレンの背が粟だった。増幅する嫌悪感で知らずのうちに口の中に不快な唾がわく。

「あれだけの娘に触れておきながらまだ飽き足らないとは呆れる」

「彼女たちは別に私の欲を満たすためではない」

 平然と吐かれる非情にセレンは眉をひそめた。斬りかかりたい衝動に駆られるが、メリーノの後ろにさらに二人の影が現れる。体格からして護衛か。

「見果てた愚者だな。今度はどこの公女を泣かせる気だ」

 抑えきれない激情が剣の代わりに罵言となる。即座の反論を予想したが、数秒の間が空いた。

「おまえ、本気でそう言っているのではないよな?」

 メリーノの返答がなぜか呆れ混じりである。理由は分からぬがどのみちセレンの知ったことではない。素早く三つの頭の向こうに視線を走らせ、さらに別の人影がないのを確認する。

 扉が鈍い音を立てて閉まり、床に走る光の筋が消えた。堂内を照らすのは再び祭壇の燭台とセレンが持つ蝋燭の焔だけになる。

 即座にセレンはそれらを消した。

 一瞬にして闇が深まり、物と物の境いが不確かになる。

「この部屋の中ですら私から身を隠そうと? 恥じらう娘より真っ向から牙を剥いたお前の方が好みだが」

「一体なんの冗談を言う」

「口説き甲斐が無いな……まあ、それも面白い」

 身廊にコツ、コツ、と落ち着き払った靴音が木霊する。だが、セレンが聖堂に入ったときの感覚を思い起こせば、日暮れ前の外の明るさに慣れた状態でいきなりこの堂内に入った者はまだ視力が鈍いはずだ。おまけにセレンが来た時には蝋燭が灯っていたため少なくとも祭壇へ向かうのに苦労はなかったが、いまは全ての灯火が消えた。メリーノには物の識別ももはや難しいだろう。

 逆にセレンはもう暗がりに慣れた目だ。柱か彫像か、うまく相手の死角に入って扉まで走れるか。

 しかしそう考えた矢先、重なっていた三つの影が分かれる。太い石柱を挟んで左右の側廊にそれぞれ一人ずつ。

 ――時間の問題か。

 足音にはまだ戸惑いが混じるが、困惑した様子はない。いますぐ俊敏な行動が無理でも、それが可能になるほど向こうの目が慣れてくるのもまもなくだろう。身廊と側廊の両方を塞がれては出口まで移動するのも一筋縄ではいかない。

「それにしても今日は大人しいのだな。剣を抜かないとは」

 確かにセレンの身体能力なら、相手の動きを剣で封じれば難なく抜けられる。しかし——

「神の御前みまえだ」

 衣の上から隠した剣の柄を確かめる。腿に沿って固定した短剣はいまにでも抜けるようになっているが、ここは聖堂だ。

「たとえ外道が相手でも神に非礼を働きたくはない」

「酷い言われようだが、同感だ。傷なしに越したことはない」

 すでにメリーノは内陣の手前まで来ていた。セレンを見つめたまま低く言い放つ。

「連れ帰る。娘に傷はつけるな」

 主人の命に側廊の二人が首肯する。恐らく三人とも闇に不自由しなくなってきた頃だろう。手に獲物は見えないが、護衛二人の体勢は確実にセレンを標的に定めている。

 ここで捕まるわけにはいかない。「すぐ戻る」と、クルサートルに約束した。

「手荒な真似をする気はない。ただ私の手を取ってくれさえすれば良い」

 足が止まり、こちらに手が差し出される。もはや三人は内陣と廊のきわに立ち、三方からセレンを囲んでいる。

 ただ、幸いだ。目の前に伸びる身廊は側廊と比べて幅がある。セレンの体格ならばメリーノの左右どちらかをすり抜けるのはたやすいはずだ。

 問題は、その機を掴めるかどうか。

 ――一瞬でいい。メリーノの気を逸らせれば……

 剣は使えない。代わりに手中にあるのは、消えた蝋燭を載せた銀の皿のみ。

 短くなった蝋燭を外して床に捨て、皿を掌に固定する。こんなものを投げつけてもメリーノが動揺する可能性は低そうだが、他に方策がない。高速回転をつけて飛ばせるよう、セレンは指を円盤の縁にかけた。

 すると、銀器に当てた爪の先に一筋の白い光線が走った。

 ――そうか。

 即座に天井を盗み見る。円蓋の上部にある小さな天窓の枠が三日月型を描く金色で縁取られ、さらにはその金の弧が見る間に円周の上に伸びていく。

 光輪が作られていくのに目を見張った刹那、頭上からの大音声が鼓膜を圧した。

 いまがその機だ。

「一つ、言っておく」

 鐘楼の鐘が聖堂全体を震わす中で、凛と声を張る。

「ここの人たちには手を出すな。テッレは私と何のゆかりもない」

「それでは、おまえはどこの出だと?」

 鐘が時を知らせ続ける響きにメリーノの問いが重なった。

「そんなもの」

 天窓の玻璃が端から黄金色に染まり始める。セレンは円盤にかけた指に力を込めた。

「天の四神に聞いてみろ」

 言い放つと目を瞑り、皿を上空へ鋭く投げ上げた。それと同時に窓の全面が輝く円となり、鮮烈な光が堂内に射し込む。

 天蓋の神々が鮮やかに浮かび上がる中、宙に飛んだ銀盤から白金の閃光が放たれる。その直後、メリーノの視界が白一色に染まったと思うと、眼球に強烈な痛みが走った。

「うぁっ……!」

 目を手で庇った瞬間、護衛の一人が痛みに呻く声が耳に入る。天井から真っ直ぐに入った陽光が一瞬にして四散した気がした。まるで宝石の上で明かりが乱反射するように。

 網膜を突くような痛覚に歯を食いしばったところ、身のすぐ横を風が走る。反射的に身をよじると細い毛が頬をかすめた。

 瞼の裏にあった痛烈な刺激がやわらぎ、再び目を開けたとき、そこに娘の姿はなかった。

 代わりに内陣の中央に、銀の円盤が光を宿して転がっている。

「鏡の乱反射か……」

 闇に慣れてきたところで太陽光の反射を直に受けたせいで、まだ視界の中に不純物が明滅して見える。

 半眼のまま上に目をやると、円蓋の中で大陸が夕暮れの陽射しに照らされ、草花や海の波間でちらつく珠が世界を飾る。さらに円蓋の下部を額のように巡る細い線には煌々たる飛沫を上げた波が映し出されて、自分たちの立つ下界と天を分けているかのようだ。

「『天の神に聞け』、か」

 我知らず、メリーノは最後に耳を震わせた言葉を我知らず繰り返していた。艶やかな黒髪に手を伸ばすことすらできなかった。暗がりの聖堂で見た娘の影は神が見せた幻だったと言われたら、はっきり否定できる者がいるだろうか。

「追いますか」

「いや」

 無数の鏡が互いに輝きを返し合う。先ほどの暗がりから一転した華々しい色彩の中で、四神が慈悲深い微笑みをこちらに向けている。

「このままテッレを抜けてカタピエに帰る。あの娘の望む通りにしよう」

 神々が微笑むのは、娘が逃げおおせたのを喜んでか――だがそれでも、この目に再びあの姿が映ったのだ。

 せめていま一度、まみえるだけでなく、この手で直にいだけたら。

「神が地にやった娘というなら、私が地上に繋ぎ止めようじゃないか」

 新たな思いが胸の内に火を灯す。触れることすら叶わなかった空の手のひらをしばし見つめると、メリーノは内陣に進み床に落ちた円盤に手を伸ばした。

 手中に収まった銀の皿が、月光のごとくきらめいた。

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