輝く幻影(三)

 分厚い石扉を押すと、冷えた空気が頬に当たる。一歩足を踏み入れれば、そこは春の盛りの陽射しが届かず、別世界に入ったような感覚に囚われる。

 聖堂内では五感に与えられる刺激がほとんど無かった。外界の光や熱は遮断され、まるで人間界とは別の存在が息づいているのではと、畏怖すら覚えさせる異質な空間である。薄暗い中で物の輪郭もはっきりしない。ただ、足元から伸びる身廊の先に、天井が高くなっている部分があるのは入り口からも見て取れた。

「どうぞ奥へ」

 先に入った修道女に促されるままセレンは歩を進めた。床石を打つ靴音が空間内に響き、反響してセレン自身を包み込む。自らの発した音が自らを支配する状況は、意識を外ではなく己の内へ向けさせる。まさに内省の場にふさわしい。それとも聖堂という場所が、聴覚からの刺激をそう解釈させるのだろうか。

 体験したことのない感覚を覚えながらそんな考えが浮かんだところで、前を歩く修道女が足を止めた。身廊が終わり、床が円を作る場である。手招きされてセレンが円の中心まで来ると、修道女は蝋燭を灯して上を指差した。

「これは……」

 思わずため息が漏れる。

 頭上高くで半球型を作る円蓋に、実に見事な絵画が描かれていたのである。画材に何が使われているのか分からないが、柔らかい輪郭線が人物や草花を繊細に浮き上がらせ、厚みのある塗料が陰影を作る。

「素晴らしいでしょう。テッレ教区の宝ですわ」

 顔を上に向けて固まったセレンの様子に、修道女は誇らしげである。

「四神を描いた聖典に基づく絵です。昔は識字率が低かったから、絵画で教えたのでしょう」

「それでは……あそこに描かれた陸地はアンスルですか?」

 修道女は首肯した。天井には海の波に囲まれて陸地が大きく描かれていた。中央には光と思しき明るい淡黄色たんこうしょくの真円があり、その周りに四季折々の草木が陸を四等分して配されている。現在の地図で見るアンスル大陸の地形とは異なるが、それはまだ測量技術などが未発達だったからだろう。

 天井画の下部では細い鏡が円蓋を一周し、鏡の際に文字が綴られているようだ。しかし蝋燭の炎ではよく見えない。

「ここはいつもこんなに暗いのでしょうか」

 文字を読もうとセレンは目を細める。なんとか聖典に出てくる固有名詞がいくつか拾えた。

「大抵の時間はこの暗さですわ。荒ぶる心を鎮めるために。でもね、夕暮れ時だけ明るくなるのです」

 修道女は天井の一点を指し示す。指の先を辿ると、天蓋の西側に丸い窓があった。

「日暮れ近くにお日様の光があそこから入ってこの絵を照らし出すのです。季節によって時間も違うけれど、ここ最近なら次の時報くらいですの。お見せしたいと思ったのはその時の美しさですわ」

 なるほどと説明を聞きながらも、セレンはまだ絵画から目が離せなかった。

「でも驚きました。四神の擬人化はよく見ましたが、こんな……大陸の上を神々が飛ぶような描写は初めてです」

「ケントロクスからは少し距離がありますものね。この辺りではときどき見る類ですよ」

 修道女は首を動かさずに魅入られているセレンを微笑ましく思いつつ、説教壇の向こうに立つ振り子時計に目をやった。

「わたくしは他の修道士との約束があるので先に戻りますわ。どうぞ気が済むまでゆっくりご覧になってください。こちらの蝋燭は出る時に消していただければ」

 穏やかに笑い、蝋燭が載った銀皿をセレンに手渡す。

「もう今日中にテッレを発つのですよね。お時間あればお帰り前にでも宿舎にお寄りください」

 そう言うと修道女は身廊を戻り、入り口で祭壇の方へ向き直って一礼すると、物音小さく出て行った。

 足音の残響がまだ空間を震わすのを感じながら、セレンは再び首を上げた。手にした蝋燭の焔が揺らめき、厚塗りされた塗料の陰が動く。するとまるで壁画の神々が生きて動いているような錯覚を覚えた。目を凝らすと絵の中にも小さな円鏡がところどころにあり、描かれた草花が幾重にも映し出して立体的に見えているのだ。

 大陸の上には教会自治区の伝統的徽章のほか、公国を示すと思われる紋章もあった。

 ――中央の円を囲むのはカタピエか……テッレはあの辺り……

 頭の中で現在の地図と重ね合わせながら、天井画の陸を辿る。

 季節の花があしらわれた衣装を身に纏った神々は、それぞれ色の違う珠を手中にしていた。陸よりも大きく描かれ飛翔する四人は、陸地の中の一点に手を伸ばしている。

 しなやかな手指が四つの珠を置く地を順に確かめていく。すると蒼い珠を掲げた神のところで、セレンの目が止まった。水を司る女神だ。

 彼女の白い指先が大切そうに珠を授けた地は、アンスル大陸の沿岸部である。そこでは様々な紋章が並ぶ中に羽毛のような雪の花が舞い、その一方で海は茜色に波打つ――大陸北西部。

 閃光に貫かれたような衝撃が体を走った。

 急速に記憶を辿る。書記官邸で読んだ歴史書やミネルヴァから借りた学術書の記述と図像が、脳内で目まぐるしく再生されていく。

 ――これは……

 もっと明るい光で確かめたい。蝋燭の灯火をうまく当てられないかと銀器を掲げてみる。

 すると、蝋燭とは異質な光の筋が、身廊の暗い床に伸びた。

「失礼。祈りの邪魔をしたか」

 セレンの全身が一瞬にして強張った。

 この声は知っている。いまと同じく暗闇の中で聞いた。

 振り向くと、聖堂の入り口に立つ人物のが変わる。

「まさかお前は——」

 

 メリーノ公だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る