貴き記憶(五)

 過去の記憶であるのに、昨日か一昨日に起こった出来事のように感じる。今日、久しぶりにクルサートルと会ったからだろうか。

 セレンはゆっくりと瞼を開くと、ミネルヴァに微笑みかける。

「ミネルヴァ先生がいつも仰るように、一番大事なのは私たち人間がどう行動するかです。神々には頼るのではなく、心の支えを下さる感謝を、と」

 ミネルヴァの口癖である。神の加護を受けたいのであれば、まず自ら善を起こせと。一つ一つの想いを形にすればきっと物事は動いていくはず――そうミネルヴァはセレンとクルサートルが幼い頃から二人に言いふくめた。それはセレンも深く心に刻み込んでいるし、そうしたいと思って行動してきたつもりである。

 争いや弾圧に苦しみ傷つく人々がこれ以上増えるのは耐えられない。だからこそ、クルサートルの計画を受け入れたのだ。

「わずかであれ、希望が皆無でないならやってみる価値はあるでしょう。たとえ無駄に終わっても、動かないで後悔するよりいい気がします」

 ミネルヴァはセレンを見つめていた目を細めた。

「……あの子は昔から意志の強い子だけれど、それでもなんて大胆なことを考えるものだと驚きましたよ。ろくに協力者も得ようとしないで賭けに出るなんて」

 クルサートルの計画を知っている人間は教会の中でも限られている。一般的に非現実の伝説と思われてはいても、教庁が動いたと言えば状況は変わってくる。カタピエはもちろん、ここ数代、ともすれば諍いを起こす諸国の権力者は、珠が現存するかもしれないと思えば躍起になって探すだろう。

 我欲に走った彼らが珠を手中にしたら、何が起こるか知れたものではない。

 ――やつらにとって権力とかいうシロモノはいくら手に入れても飽き足らないらしいからな。

 脳裏に浮かぶ面々があるのか、クルサートルは侮蔑を露わに吐き捨てる。

 かといって他の教会自治区への協力も仰ぎ難いのが実情である。大陸に点在する全自治区が一枚岩なわけではない。古くは統一されていた教義や典礼の在り方なども、今となっては大綱が共通でも地域ごとに差異がある。そうした歴史は長い歴史の中で軋轢を生み、大陸全体の教会組織にひずみが出てきた。

 本来は無私に務めを果たすべき聖職者が、利を得ようと画策し、公国領主と同じく独立支配を望むようになってきたのもここ最近始まったことではない。そんな教会自治区に珠の実在可能性が知れたらどうなるかなど、想像して余りある。

 ——事を成すために、騙すなら身内からだ。

 ケントロクス教庁の静まり返った部屋で、クルサートルの囁きほどの低い声は異様なまでに大きく聞こえた。

「彼の目指している先は私やミネルヴァ先生が願っていることと同じでしょう」

 セレンは木の椀に目を落とした。春野菜の色彩が椀の濃茶によく映える。

「それは……そうね。若い娘さんがあのメリーノ公の被害に遭うのも胸が痛んだのは本当ですよ」

 珠が見つかるまでにカタピエが大陸全土を掌握するようではいけないし、加えてカタピエへの干渉はこちら側にも利があった。公女を救い出し、なおかつ各公国に神の至宝らしきものがないかを彼女たちから探る――メリーノの阻止は手っ取り早く各地の中枢にいる人物に接触するためには他にないほど効率的だ。

 ただし、教会が他に干渉しないという不文律のもとで、争いを起こさずに大国を抑えるためにはどうすれば良いか。

 他国に入り込み四神の珠を入手する――教会の伝統的在り方に反する計画だ。身元を露呈せず、単独で動ける人間は誰か。

 自らが得た使命。公女の救出は、セレン自身も望んだ役目だった。

「メリーノが軍を動かす策に出たら成す術がありませんでしたけれど。私は師匠せんせいにも女だからこその身軽さが武器だと言われましたし、公女もあまり警戒せずに私について来てくれますし」

「セルビトゥのお嬢さんもそうだったみたいね」

 一代前のメリーノ公が死に、現在の公爵へ政治が変わると、公国は軍功を揚げるのを止めて公女の輿入れを政策に選んだ。それならば小国を服従させるための種である公女をカタピエから切り離す。

 カタピエの宮廷で縮こまる公女たちの顔には底知れぬ怯えが浮かび、非情な空気の中で縋るようにセレンを見つめた。セレン自身が幼い頃にクルサートルに救われたように、今度は自分が彼女たちを救えるのなら本望である。救い出した娘たちの顔から恐れが消え、代わりに笑顔が浮かぶのを見るたびにそう思った。

「伝統的な教会の在り方に背いていても、神は赦してくださると思います」

「セレンがきちんと自分で決めてそうするなら、わたくしは口出ししませんよ」

 ミネルヴァは卓の上でそっと自分の両手を重ねる。

「あなたが自ら信じ、決めたことを行いなさい。人に知れずとも神の御前で顔を上げられる行いであれば、それは正しい行いに違いありません」

 老婦人が繰り返し語ってきた教えである。これを聞いてセレンは自分の胸が痛まないのを認め、いつも前を向けるのだった。今回のことも同様である。

「彼女たちが公女として自分の宮廷いえに戻れるようになるにはカタピエの勢力をさらに削がなくてはいけないでしょうが、遅かれ早かれ、暴君ではなく本当に想った人と幸せになれるといい」

「あなたという子は……わたくしはあなたが泣いたことを見たことがなかったわねぇ」

「そうだったでしょうか――でも、なぜだか悲しいときに、泣いてはいけない気がして」

 セレンはミネルヴァの敬服の眼差しを受けてはにかんだ。

「あなたのご家族はきっと、立派な方だったのだと思うわ。娘さんたちもむしろセレンがあまりに素敵で憧れてしまうのではないかしら」

 ミネルヴァが半ば冗談めかして言うと、「まさか」とセレンは大仰に手を振った。

「淑女になろうという良家の令嬢に限って無いですよ。私みたいな格好も振る舞いも女らしくない娘なんて」

 心底から驚愕した返事を微笑で受け止めながら、ミネルヴァは心の内で呟く。

 ——最近のカタピエ公の噂なんかは聞かせない方がいいかもしれないわね。

 修道院の授業に話を切り替え、楽しそうに語るセレンを前に、ミネルヴァは密かにため息をついた。

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