貴き記憶(四)
「今から行く部屋については他言無用だ。それを約束の上で見せるものがある」
いつになく物々しく述べたとき、セレンは見慣れているはずの碧の瞳に恐怖に近い畏怖を覚えた。
四神の珠を口にしたあの日、クルサートルは聖典を手にしたままセレンを教庁の地下へ導いた。セレンが――いや、他のほとんどの市民も教庁に地下室があるなど知らなかっただろう。
「ここの最高責任者のみに受け継がれる鍵だからな」
隠し扉を開けて現れた狭い階段を降りながら、クルサートルはセレンを振り向きもせずに述べる。灯りは無く、見えるのはクルサートルが持つ蝋燭の炎が届く範囲のみで、下方に伸びる空間は狭いのか広いのかもわからない。
靴音しか響かない空間は自然と口数を少なくさせた。言葉を交わすことなくかなりの段数を下ると、やっと足先に続く段が無くなる。
クルサートルが数歩踏み出すと、すぐそばの石壁に描かれていた蝋燭の光の輪が一瞬にして広がった。前を行く広い肩越しに前方を見ると、拡大した円の中に台が浮かび上がる。
「円盤?」
丈のある台座の上に円のように見える薄いものが載っている。
「いや」
カツカツと石の床が靴音をいやに響かせる。円に近づいたクルサートルが、その縁にそっと手を当てた。
「鏡、だと言われている」
その物を前にしているのにはっきりしない返答だ。だがクルサートルに倣って円のところまで来ると、セレンにも意味が理解できた。
円だと思った盤の縁には、いったい何角形になるのか分からないほど細かい角がいくつも作られていた。そしてその縁から近い部分は確かに銀鏡と同じく、縁に当てられたクルサートルの指と蝋燭に照らし出された天井を映し出している。
だが縁から手のひら一つ内側へいったところは、鏡の機能を果たしていない。
深遠な闇――薄暗がりの中でさえ分かる深い色に支配される面。いや、面を成しているのかも判別できない。実体がないように見えながら、確かにそこに重々しく存在する闇があった。
「もとは鏡、だったのか?」
理由のわからぬ恐怖が喉元から込み上げて来る。それなのになおも目を逸らせず、セレンは傍らに佇むクルサートルに問いかけた。
「世界を映し出す鏡と言われている。まことの祈りが伝えられ、世界が正しくある時代には澄み切った美しさを見せると」
巨大な鏡面を作り出す縁の四箇所、ちょうど対角線で結んで十字になる位置に皿のような窪みがある。その一つにさっと触れると、立ち尽くしたセレンに「戻ろう」と短く述べてクルサートルは踵を返した。
アンスルはカタピエが台頭してくる前から小国間の争いが頻発している。表面的にも水面下でも非道な行為が繰り返され、困窮する民や行き場を失う子供たちが後を絶たない。
――教庁の奥を知らされてからこのかた、闇は広がり続けている。
クルサートルが父の後任として正式に立つ前にあの部屋に連れて行かれた時にはもう、闇は面の半分以上を覆っていた。そしてそれは、少しずつではあれ、なおじわじわと広がり続けている。
――教庁が教会の中心としてある意味と、伝えられているあの鏡の役割を繋ぎ合わせれば……
古くからケントロクスに伝わる聖典には、あの鏡と同じと思われる絵があった。色褪せて輪郭線が擦れてはいるが、四つの皿とおぼしき箇所にそれぞれ異なる四つの色が塗られていたのが分かる。そして四つの石の囲まれた中央に白い円が浮き上がって見えた。
あるべき姿として描かれた鏡の絵には、アンスルの安寧の発現を記す文言と共にある。古語で綴られた言葉はかつての色彩を説明し、曰く、そこに引かれた円はこの世の中心、祈りの届く地。この世の行いと心が共に正しきときに、白銀に輝くと。
――恐らく、祈りの地というからには中心はセントポスを指すのだろう。
教会の中枢はケントロクスだけではない。もとより教会の最重要地は大陸の中心に位置するセントポスと呼ばれる地であった。カタピエ公国に周囲を取り巻かれ、地図上ではちょうど大国の中心をくり抜いたように見える。歴史の古いこの小領地は極めて小さく、歴代の総帥の居所を兼ねた聖堂がある程度だが、ここだけはいかな大国だろうと蹂躙できぬ不可侵の場所である。
教会の古い歴史の中でいつからこの鏡が教庁にあったかは分かっていない。だがセントポスとケントロクスの二つに教会の責務は区分され、大陸全体を見渡し実務的な働きをするのがケントロクスなら、世界の状態を把握するよう教庁に鏡が託されたのは不思議ではない。
鏡に手を滑らせたのと同じように、クルサートルの指が聖典の絵の角にゆっくりと伝う。
――もし神々が安寧をもたらすのならば。
もし四神の珠が今はどこかに眠っているのであれば。それが力を持つのであれば。
クルサートルは聖典を閉じた。黄ばんだ古紙の端が屑となって書見台を汚した。
――神の恩寵が現れるのかどうか。
アンスル大陸を守る、四神の珠を探し出してはみないか——
碧色の澄んだ瞳はそれまで見たことがないほど真剣だった。まるで果てがわからぬ空のようであり、静謐で強い意志が表れた深い色は、それこそ神の至宝のように。
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