貴き記憶(三)
「自分で自分の身を守れるようにしたい」
本格的な剣の訓練は、他の誰から勧められたのでもない。普段私欲を言わないセレンの口が明確に希望を表した。
セレンが養育院に預けられた当初から、クルサートルは頻繁にセレンを訪れた。発見された時に衰弱していたセレンの体が徐々に回復してくると、しばしば養育院からセレンを連れ出すようになる。
「セレン、今日はケントロクスの街の端まで行ってみよう」
「屋敷に新しい本が入ったからセレンも読みに来ないか」
「父上が総帥書記官の仕事場を覗かせてくれると。セレンも一緒でいいとおっしゃっていた」
ケントロクスについてなんの知識もないセレンがすぐに生活に慣れたのは、こうした遊びを通して街の仕組みを無理なく学んでいったおかげだろう。
クルサートルと共に過ごす時間は次第に長くなっていた。見つけた責任感からなのか、四つ上のクルサートルもよくセレンの面倒を見ていたし、セレンが興味を示せば、自分に可能なものなら何でも見せてやっていた。その中にあったのが、クルサートルが受けていた剣術の稽古である。
「セレンは女にしては筋がいいな。四肢の動きも柔軟だし、素質はあるのではないか」
単なる遊びのつもりで、クルサートルの師範に剣の振り方を指南してもらった時だった。ひと通り型を見た師範の感想には、剣術の稽古を本気で勧めるつもりはなかったのだろう。
しかし、稽古が終わりクルサートルと別れる間際、セレンは指を揃えて頭を下げた。
「人を傷つけるのではなくて、守るための剣術があるなら教えてください」
人に頼らずに立っていかなければならないから――子供らしからぬ理由に誰もが胸の痛みを覚えたが、真摯な瞳を前に否と言える者などいない。すぐに稽古用の剣と衣服が用意された。
セレンの上達は速かった。新しい技を教えればすぐに覚え、太刀筋も狙った軌道を正確に辿るようになるのにそこまでかからなかった。修道院に移り住んでからも定期的に指導を受け続け、いつしか剣技ならケントロクスの若者では指折りと言われたクルサートルとも肩を並べる。
総帥秘書官を務めていたクルサートルの父が持病を理由に引退し、息子を後任に据えてケントロクスから離れたのは二年ほど前か。修道院の事務報告でセレンが教庁を訪れた時のことだ。
秘書官室の窓の向こうには七分咲きの桜が風に揺れていた。淡い色彩が重なり合い、妙なる階調を作り出す。
思わず笑みが溢れる自然を背景にしながら、クルサートルの顔は逆光でよく見えない。ただ緑色の瞳だけはいやに強く、目を背けるのを禁じる。
空気を緩ませる陽気とは裏腹に、冷えた響きがセレンを捕えた。
「神の恩寵を試す気はないか」
その一言で、セレンの世界が変わった。
***
あの時のクルサートルの顔は、いまでも目を閉じれば瞼の裏に鮮明に浮かぶ。
「彼の決断は確かに思い切ったものですが、それだけの覚悟があったのだと思います」
クルサートルが打ち明けた計画は、アンスル大陸全土に恒久の平和をもたらすものとセレンには理解できた。神の恩寵――すなわち、教会が祀る四神の力の現前を導く、と。
天の大神から大陸の守護を拝命したという四海の神々は、それぞれ自然界を成す力の珠を御し、それをもって大陸に安寧をもたらす——様々な奇蹟の物語と共に聖典に綴られ、人々の信仰の源になっている説だ。
いまとなってはこの話を心から信じる人は少ない。単なる伝説として受け取られるのが普通になり、四神の珠は神の恩寵を喩えるために分かりやすく物体化して物語中に組み込まれただけだろう、と考えられている。
しかし総帥直属秘書官の立場にあって、クルサートルの考えは違った。
――もし四神が本当にアンスルを守るのであれば、珠の存在も作り話として簡単に捨てるのもどうだろうな。
ケントロクス教庁で代々受け継がれてきた聖典を開き、いまは使われなくなった文字を辿りながらセレンに説いた。
奇蹟の伝説は現在も実在する具体的な土地名を示し、それぞれの地の描写も一致する部分が多い。さらには聖典だけではなく、宗教画では輝く珠が四神の象徴や擬人化した神の持物になるほから史書の中にも四神の珠と思しき記述が登場する。
ただ、もしそれだけなら教会教育を叩き込まれたセレンであっても夢物語と思ったかもしれない。しかしセレンにはもう、荒唐無稽と切り捨てられなくなってしまった。
実際に教庁の奥の奥であの部屋の光景を見てしまっては。
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