貴き記憶(二)
見つけられたあとセレンはすぐに医師の診断を受けたが、怪我も病気もなかった。ただ、疲弊のためか意識障害か、丸一日目を覚まさなかった。ミネルヴァと共にクルサートルまでつきっきりで看病したが、時々うなされながらもこんこんと眠るばかりで打つ手もなかったという。
見つかってから二日目の日付が変わる間近にようやく目を覚ましたとき、看病していたミネルヴァの安堵は経験がないほど大きかった。しかし――
――わたし、は……
やっと聞けたあどけない声は、その先から続かなかった。セレンはほぼ全ての記憶を失っていたのだ。
医師を呼び、なんとか分かることを引き出そうと問いを重ねた。しかし身元を調べるのに必要な事項で答えられたのは、自分の名前と生まれた日くらいだった。
だがそれだけでは済まない。驚いたことに、セレンは聖祝日ならば全て正確に述べたのである。
さらに質問を続けると、ほかの何を聞いても首を横に振るばかりであるのに、祝日以外も教会歴は覚えている。よほど信心深い家に生まれたのだろう。恐らく誕生日が記憶から抜け落ちなかったのはここに理由があるのかもしれない。
セレンの言葉が本当に真実かどうかはわからないが、他に新しい名をつける理由もない。何よりこの名は、月をそのまま映したように静謐な輝きを放つ瞳にもふさわしい。ミネルヴァがそう主張すると人々もすんなり受け容れた。
それに大人たちの関心からすれば、名前などどうでも良かったのだ。
――素性が知れないままこの子供をケントロクスに置くのか。
――遠方の公国にも手を伸ばして調査を続けた方が良くはないか。
子供であるセレン本人には理解できないと考えたのか、そんな声が教庁の中のあちこちから起こる。さざめきが広まる速さはいかに残酷か。当時の総帥秘書官は、皆の内心を窺うように場を見守っており、彼が意見を述べない以上は主張を控えていたミネルヴァの我慢も、遂に切れそうになった。しかし――
――馬鹿なことを。セレンの顔を見てどれだけ不安があるかもここの大人たちは読み取れないのですか。
吐き捨てたのはまだ少年のクルサートルだった。
もしこの子の親が教会自治区に届けるしか他にない状況だったのならば故郷を突き止めてどうする、逃げ場を求めてきた人間を惨禍の中に戻す気か、と。
クルサートルの意見はミネルヴァが声を出すための大きな救いだった。ひょっとしたらミネルヴァ一人が抗議しても無為に終わったかも知れないが、総帥秘書官の息子が前に出ると話は違った。
疑心の声が止むと、神官たちの議論を黙して聞いていた総帥秘書官本人も息子の意見と同じ宣言を下す。
秘書官の言が持つ威力は総帥の代弁に等しい。ケントロクスで引き取ることへ異を唱える者はいなくなった。
「あの頃の教会が暴動の犠牲者を積極的に受け容れようとしなかったのには反対していたんですよ。一人を許したらキリがなくなると言われたらそうですけれどね。でもあなたみたいに小さな子が身寄りもなく一人でいて、放っておくなんて無理ですよ」
「それなら私の記憶がなかったのは運が良かったですね。どこから来たのか覚えていたら、入れてもらえなかったかもしれませんから」
混じり気のない感謝の言葉に、ミネルヴァは眉根を寄せた。
「そうやってあなたは記憶が無いのを全然気にしたふうも見せないけれど、こちらは胸が痛みました。同じくらいの歳の子達がいる養育院にいる期間も短くて……」
通常ならば修道士の一部が運営する養育院で成人まで過ごすのだが、セレンは当時の総帥秘書官――クルサートルの父親の指示で修道院へ移ったのである。
ミネルヴァは、過去の苦い思い出ではなく現状を語るかのように渋面を作るが、逆にセレンはさっぱりと返す。
「いいえ、むしろ私は幸運でした。こちらに移って、生活だけでなくミネルヴァ先生直々の教育も受けさせていただきましたから」
「それに関しては私が舌を巻いたのですよ。どんなに難しい教材を与えても難なくこなしてしまうし、物覚えもとてもいいのだもの」
それはなくなった記憶の分かもしれない、とセレンが茶化すと、ミネルヴァもつられて笑った。
「私も歳をとったものね。あなたの面倒を見る役目を引き受けたはずが、今はあなたがここにいてくれて私が助かっているわ。生活面でも、学校の方でも」
代々、ケントロクスの修道院に住まう修道士はあまり多くない。修道院長以外の修道士が寝起きする住居は別にあり、また養育院を任された者たちはそちらで子どもたちと生活を共にする。
この修道院もセレンが来るまではミネルヴァひとりが住んでおり、子供たちが学びに来る日中だけ、教師を務めるほかの修道士がやって来ていた。セレンも拾われてすぐに修道院で教育を受け始めたが、数年前から教師側に回っていた。ほかの修道士は授業が終われば帰っていくのに対し、セレンはミネルヴァと寝食を共にし、雑務や家事の手伝いをしている。
「あなたが先生をやってくれるのは子供たちにとってもいいことだわ。家族を亡くした子たちは心の病気になってしまいやすいけれど、セレンは修道士の中でも彼らと歳が近いし、優しくて聡明な女の子が自分たちと似た境遇だと思ったら希望が持てるでしょうね」
ミネルヴァは鍋の中をお玉でくるりとかき回し、具沢山の汁をセレンが差し出した木の椀に注いだ。ざく切りにされた色とりどりの野菜が椀の中で揺れる。セレンはまな板の上で手早く香草を刻むと汁椀の上からそれを散らし、盆に載せて食卓のある隣の間へ向かった。
その後ろにつきながら、ミネルヴァは再び顔を暗くする。
「あなた自身もせっかくここまで立派なお嬢さんに成長したのだし、自分の幸せを探してもいいのよ。だから私としてはね、恩義のある秘書官の命とはいえ、あなたが危険に晒されるのは避けて欲しいのだけれど……」
恨みがましくも聞こえる悲嘆を背中にかけられて、セレンは苦笑した。ミネルヴァの心配は温かく、セレンに居場所があると教えてくれる。でも自分の足で立てるようになったからこそ、やりたいことがあるのだ。
身分を隠して暗躍するようになってから、もうどのくらい経つだろうか。
あの不穏な影を晴らすために。
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