第二章 貴き記憶

貴き記憶(一)

 冴えわたる春の青空が茜色に変われば、修道院で遊ぶ子供たちの笑声も別れの挨拶に変わる。迎えに来た大人たちに連れられて、一人、また一人と数が減り、最後の子供が門を出た頃にはすっかり夜のとばりが降りていた。

「ミネルヴァ先生、教室の戸締りを終えてきました。それから、迎えの際に養育院から授業料を受け取っています」

 子供たちの見送りを終え、セレンは教室から住居棟に戻って報告する。調理場に立っていたミネルヴァは、セレンに気がつくと手にしていたお玉を傾けて見せた。

「ありがとう。お疲れ様。こちら火が通るまで少しかかるから、ちょっと待ってね」

「手伝います」

 調理場ではとろ火にかけられた銅鍋の中で汁がふつふつ気泡を作り、立ち上る湯気と一緒に煮込んだ春野菜の香りが部屋中に広がっていた。

 鍋の中を掻き回しながら、ミネルヴァは食器棚に手を伸ばすセレンを見上げて目を細める。

「あなたもすっかりお姉さんになったわねえ」

「ええ? なんです先生、いきなり」

「いえね、あなたがまだここに来たばかりの頃は、踏み台に乗っても棚に手が届かなかったでしょう。それなのに今は私の背丈も超えてしまったのだもの」

 ミネルヴァは頭のてっぺんから足先まで、セレンをしげしげと眺める。

「しかもこんなに美人になってしまって」

「やめてください、先生」

 含みなく言われてしまうとうまい謙遜もすぐには出ず、セレンははにかみながら顔を逸らした。頬に生まれる火照りを感じながら棚の上段から椀を取り出す。

「私をここまで育ててくださったのは先生じゃないですか」

 照れ隠しと感謝の混ざった答えを聞いてミネルヴァの顔に笑い皺が刻まれる。そんなことを言うようになったかと、鍋に向き直りながら遠い過去に思いを馳せた。

 アンスル大陸ではそれぞれの公国の近隣に必ず教会自治区が存在する。自治区が司る役目は様々だが、その中には孤児院や教育機関の運営があった。どの国にも属さない中立の立場にいて、身元の分からぬ子供や両親を亡くした少年少女を受け容れ養育するのは教会に属する修道士である。

 まだとおにも満たない頃、セレンも身元不明の孤児として引き取られた。夜明けから間もなく、人通りも少ない中、ケントロクスの路地で倒れていたという。

「あのときクルサートルが私を見つけていなかったら、私は野垂れ死していたかもしれません。記憶まで無かったのでしょう?」

 ミネルヴァは答える代わりに瞼を閉じた。

 もう十年以上も前だが、あの朝は忘れもしない。ミネルヴァが聖堂で祈りを捧げている最中、突然扉が乱暴に開いてクルサートルが駆け込んできた。少年は次の総帥秘書官として定期的に修道院長であるミネルヴァと朝課を共にしていたのだが、聖堂内に入るなり今すぐ助けが必要だと少年は叫んだ。

 クルサートルにせかされてミネルヴァが外へ出たとき、鮮烈な光に一瞬、視力が奪われたのを覚えている。手を翳して天を仰ぎ見れば、茜色に染まる雲の隙間からちょうど太陽が姿を現したところだった。

 その頃は大陸を囲む四つの海が荒れ、内陸でも豪雨豪雪が相次いでいた。漁獲量、収穫量ともに不安定になってくると、資源の確保を求めて国と国との小競り合いが頻発し始めた。大規模な戦争まで発展せずとも犠牲者なしというわけにはいかない。暴動により住まいを失い路頭に迷う者も少なくなかった。

 ケントロクスの周辺国も一時、似たような状況に陥った。不可侵の掟ある教会自治区は他国から血生臭い干渉を受けずに済んだが、その代わりに教会自治区も他国には口出ししないという不文律がある。暴動を止めようと思っても教会勢力が表立ってできることは限られている。

 固く門戸を閉ざしていた教会自治区で、荷物一つ持たずに街の端で意識を失っていたセレンを見つけた。そして幼な子が身を丸めて横たわっていたところは、教会自治区を囲むようにして等間隔に立つ聖碑の前である。

 まるで天がそこだけを選んでいるかのように、雲間から降り注ぐ朝日がセレンを照らし出していた。

聖碑せいひには神々が宿り、街を守ると言われるじゃないですか。私はきっと神に守られたのだと思っています」

 親が騒動に巻き込まれ子を育てる術を亡くしたのか、子供の方が必死で逃げてきたのかは分からない。身につけていた服は粗末なものではなく、胸の上には銀で縁取られた宝石を通した首飾りがあった。泣く泣く子を手放すことになった親がせめて先立つものとして持たせた財だろう。

 あちらこちらの教会自治区に素性を問い合わせても誰もが首を振るばかり。ケントロクスまで辿り着けたのは幸運としか思えない。

 見つかった場所ゆえに、神々の庇護だと人々は言った。

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