燻る火種(三)
クルサートルは頷いた。アンスル全土が信仰する神々から与えられた使命として典礼書に刻まれた文言であり、教会の遂行すべき最重要事項に位置付けられている。
「覇権は人間にあるのではなく、大陸を治める四つの神にある。同じ信仰を持つカタピエが典礼で唱えておきながら蹂躙しようとしていることだがな。教会の力も弱体化したという証拠か——」
「だが私はその神の恩寵に救われた人間だ」
月色の瞳にあった弱く自信なさげな翳りが消え、声に芯が取り戻される。
「この句は一時でも忘れられるわけがないし、カタピエが他国に加える圧力をメリーノが続けようとするなら阻止しなければ」
クルサートルの口が笑みの形を作った。だが穏やかに見えたのは上辺だけである。
「大概の人間は典礼書の誓いを形式的な儀礼として唱えているに過ぎないがな。『平和を』と薄っぺらい言葉を並べて」
微笑を浮かべて淡々と話しているものの、瞳は露ほども笑っていない。そこに浮かぶ感情はむしろ逆だ。
「腐った現状はもうたくさんだ。一刻も早く神の珠を探し出し、神の真意を知らしめる。アンスル全土の安寧を神が本当に望んでいるなら」
返事の代わりに、銀色の瞳に宿る力が強まる。
「だからこそカタピエに悟られるような余計な波を立てるな。セルビトゥの娘については、もうこちらに任せておきなさい」
敢えて簡潔にまとめてしまうと、クルサートルは姿勢を崩して机上に肘をついた。無駄に会話を緊張させる趣味はないのだが、セレンはいい意味でも悪い意味でも生真面目だ。他者の身に重ねてものを考えるセレンにとって、この話は内容が内容なだけにどうしても自己の責任以上の重みを持ってしまう。
だがいまここで心を痛めても事が進むわけでもない。クルサートルは傍らに置いた杯の水を一口含んだ。
こうきっぱり話を終えられてはセレンも強くは出られない。長い付き合いでそのくらいは分かっている。予想通り、ややすっきりしない思いが残りつつも、セレンはそれ以上の言及をやめた。
代わりに問うのは別の一件である。
「そのアンスルの状態だが、私がセルビトゥに行っている間、あそこは何か動きがあった?」
問いと同時にクルサートルの瞳の碧が深くなる。誰も他に聞く者はいないはずだが、返答は先よりも一段低かった。
「何も変わってはいない。いや、むしろ濃くなっているようにすら見えるな——北部の海がまたもひどく荒れたらしい」
「救援は」
肯定を示してクルサートルは口を噤んだ。ケントロクスが打てるだけの手は打ったという意味だ。
クルサートルとセレンが生まれるより前からアンスルは不安定な状態が続き、天災に天災が相次いでいる。そして災厄によって苦境に立たされた地域で暴動が起き、場合によってはその火種が燃え盛り他国にまで害を及ぼしていく。その繰り返しばかりだ。
「いつまでこんなことが続いていくのか……神はどう思われているか」
遠い地で災いに怯える人々が頭に浮かび、セレンの胸に締めつけられるような痛みが走る。一方のクルサートルは神妙な面持ちのまま卓の一点を睨んだ。
「それは神に問わなければ分からないな。一体どんなおつもりであられるのかと」
他国の無益な暴動に対する憤りか、それとも別の理由か、クルサートルの問いが棘を持つ。
「だからこそ早く珠を、とは思うが……目下の問題は、メリーノの動向だな。我々にとってもセルビトゥの公女から得られるものはなかったが、なぜカタピエがあんなところを」
「そこは私も不可解だ。覇権を狙うならセルビトゥなんて小国よりも優先すべき強国があるのでは? 地理的にもセルビトゥは北西海沿いの辺境だ」
もしメリーノが端から攻めてアンスル大陸の全土を掌握しようとしても、セルビトゥを手に入れたところで次の段階に有利とは思えない。港があるとはいえ、北部にはもっと栄えた漁港もある。
首を傾げるセレンにクルサートルも同意を示す。
「あの好色馬鹿がこのところ目をつけたのは海沿いが多い。大陸中央のカタピエが狙うには港があるだけで良かったかもな。ともあれ」
ことり、と小さな音を立てて書類を文鎮で押さえると、クルサートルは話を切った。
「奴の動向はこちらで調査を続行する。仕事は遠からず頼むと思うが」
そう言うなり再び立ち上がり、「ご苦労様」とセレンの肩を押す。
「短いだろうけれど、しばし休息を楽しむといいよ、セレン。ミネルヴァ先生も修道院長の業務で疲れていらっしゃるし、久しぶりにゆっくり食事でもとってさしあげたらどうだ。セレンが戻って喜んでいるのは間違いないから」
「クルサートルは?」
促されるままに扉の方へ足を進ませながら、セレンは首を回した。
「たまには自分こそちゃんと休んだらどうだ。食事だって一緒のほうがミネルヴァ先生もお喜びになるし、私も……」
抵抗できずに入口へ押されながら、急いで言葉を重ねる。
「あいにく仕事が詰まってるんでね」
廊下へセレンを押し出し
「……少しでも期待してしまうから、ここに来るのは嫌なんだ」
背中を押していた手が離れ、代わりに肩に触れる廊下の空気が冷たい。
相手に聞こえないと分かるとつい独り言が出てしまう。しかし受け取る者がいないからこそ、耳に入った自分の呟きはいっそう虚しい。セレンは思考を追い払うように頭を振ると、ぐっと顔を前に向け、秘書官室から離れた。
***
数秒、木板の向こうにとどまった気配が無くなるのを確認し、背中を軽く扉に預ける。なんとはなしに天井を見上げれば、ひとりでに言葉が漏れた。
「期待なんて持たせたくても、俺には無理だ」
雲が動いたのか、陽射しが書見台の黒木の色を明るくする。
「下手な優しさはかけられないだろう。立場上」
クルサートルは机へ戻り、日除けの布を引いた。
春の麗らかな陽光は、自分が仕事を進めるこの部屋にはあまりに不似合いだ。
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