燻る火種(二)
他の諸侯が治める国と比べ、教会自治区一つ一つの規模は格段に小さい。総帥直属の教会自治区とはいえ、ケントロクスも他の教会自治区と大差ない。特に役所や修道院といった自治区の運営を司る建物は中心部に密集している。
街路の左右に建つ集合住宅や役所の類は、ほぼ全て白黒の石を重ねて作られ、この統一感のおかげで中心部はあたかも一枚の絵のような景観を呈している。遠方から訪れた旅人が嘆息を漏らす建築物は、数百年の時を経ても、戦禍や暴動で破壊されることなく人々に生活の場を与えてきた。古くから持ち主を変えても使い続けられてきた建物が、ケントロクスの歴史を物語る。
市街地の西地区にある修道院から中央の教庁までは歩ける距離だ。煉瓦の尖塔を背にして石畳を進んできた若い娘が教庁の門前で足を止めた。高い鉄門を見上げてひと呼吸したのち、娘の白い手が門扉についた鐘を打ち鳴らした。
***
書状や印が乱雑に散らばる卓上で、男は羊皮紙の上に走らせていた筆を止めた。開いた扉の蝶番の音が鳴り止むのを確認して、再び手を動かし始める。
「ずいぶんと早かったな」
来訪者の顔を確かめもせず、視線を落としたまま述べる。言われた方は憮然として腕を組むと、背中を預ける形で扉を閉めた。
「『呼び出しがあったらすぐに来い』と言っていたのはどこの誰だ」
「そうやって女らしい格好をしていれば黙っていても男が放っておかないだろうに、剣を佩いて男装じみた真似とはもったいない」
署名の横に印を押しながら揶揄い混じりに言うと、男は初めて顔を上げた。
「誰がそうさせていると思っている。胸に手を当ててみろ、クルサートル」
扉に寄りかかったまま長い衣の下で足を組み、セレンは目をますます細めて男を睨みつける。しかしあからさまな不快感を向けられても、クルサートルと呼ばれた男は気にした素振りも見せない。印を置いて立ち上がると、むしろ面白がりながらセレンの方へ歩み寄る。
「今回の詳細報告を聞こうか。セルビトゥの娘はどうしている」
「彼女なら当初の予定通りセルビトゥ辺境の教会に預けてきた。私たちの
「ただ?」
クルサートルがセレンの正面で足を止める。ほとんど触れそうな位置に相手の顔を見て、セレンは床に視線を逃した。
「彼女の精神状態が回復するかどうかは分からない。領主の父親はそうそう辺境に来られないだろうし、知らない人間ばかりの土地だ。あちらの教会の方には今回のことを詳しく話していないし、派遣した神官は男性だろう。せめて事情を知る私がちょくちょく話し相手にでもなってやれれば……」
「セレン、行き過ぎた同情と優しさは時に身を滅ぼすぞ」
自分に注がれるクルサートルの鋭い眼差しを無視できず、セレンは相手を見上げた。
「過干渉は避ける。彼女にも私への恩義など感じないよう計らった。でもクルサートル、あなただって私を助けたから分かるだろう? 出自だけで政争に巻き込まれて人生を変えられた子を気にかけない方が、私には無理だ」
「それがセレンの弱いところだな……っと、よせ。別に責めているわけじゃない」
セレンの眉根がさらに寄るのを見て、クルサートルは片手を上げて制止する。そしてそのまま踵を返すと、書見台の方へ足を戻した。責め立てる標的を失った拍子に、セレンの背がもたれかかっていた扉から無意識に離れる。
一方クルサートルは、セレンがついてくるのを見越していたように書見台から書状を取り上げてセレンへ向けた。
「セルビトゥ領主も過敏になっている。公女の件とは別にきた報告書によれば領内に立ち入る人間に対する制限を強化したと。公女を返した時と同じには行かなそうだぞ。しかるべき役職の地位にない娘が行ったところで関所で足止めだ」
淡々と説明される正論にセレンは唇を噛んだ。確かにできることは行ったし、これ以上セルビトゥへ干渉すればメリーノ公に気づかれてしまうかもしれない。ケントロクスの神官のみならば教会政治の関連で普段から定期訪問があるためセルビトゥ行きも不自然ではないが、セレンの立場ではそうはいかない。
「私の懸念は独りよがりの同情になってしまうのかな」
我知らず、思考が口をついて出た。呟きとも言えないほど小さな声だったが、他に人のいない室内ではかき消す音もない。
セレンが視線を落とすのを見て、クルサートルは険しい表情を和らげる。
「弱い、とは言ったが、独りよがりとは言っていない。『弱さ』が悪いなんて言うのは本当に弱い奴らだけだろう。長所になるか短所になるかは状況次第だ。我々の場合には不利に働く可能性があるという意味だよ、セレン。それに新しい土地で公女の緊張もいまは少しずつ和らいでいるだろうし、今後の彼女の身の振り方についても、ケントロクスから出来うる限りの協力は行う」
子供をあやすように言われても、まだセレンの顔は晴れない。
「自分と重ねるな。それより我々が全うすべき役目があるだろう」
「……『覇権を掌握する愚者をアンスル大陸に生まず、神の恩寵による等しき平和を維持すべし』……」
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