第一部 大国の野望

第一章 燻る火種

燻る火種(一)

 空に青が冴える麗らかな昼下がりである。春の柔らかな陽の下で欠伸を噛み殺していた門衛は、近づいてくる蹄の音を耳にして市門の外へ目をやった。軽く砂塵を上げて駆けてくる馬が道の向こうに姿を見せるや、門衛は素早く頭上へ合図を送る。黒光りする鉄門が重い音を立てて開き、太い門柱の上の物見台から角笛が高らかに吹奏された。

 馬上で手綱を握るのはまだ若い男である。しっかりした旅装ながら旅の疲れも見せず、勢いよく門内に走り込んだ直後、無駄な砂塵を立てることなく見事に馬の足を止めさせた。

「あれは居るか」

 敬礼して迎える門衛に応える代わりに、落ち着きのある声音で問いが投げかけられる。

「しばらくどこかへお出かけのようでしたが、一昨日 いっさくじつに戻られました!」

 男は「そうか」と応ずると、瞼にかかる黄瑪瑙きめのう色の髪の下で、みどり色の目に笑みを浮かべた。

「あとで私のところに来るように言い渡してくれ。お前の休憩が済んだらで構わない。衛士へ土産だ」

 そう言うと男は鞄から紙袋を放り投げ、馬の腹を軽く蹴った。軽快に地を蹴る音があっという間に市街方面へと遠ざかっていく。袋の口を開けると、菓子の香りが門衛の腹の虫を呼んだ。

 アンスル大陸教会総帥の直属秘書官は、常に部下への配慮にも不足がない。


 ***

 

 四方を海に囲まれたアンスル大陸には、最大勢力を誇るカタピエを中心として大小の公国が存在する。その一方、どの国にも属さない小規模な自治区が公国と公国に挟まれて点在する——アンスル大陸を守ると言われる神々を祀る教会自治区である。大陸を囲む海を四つに分けその一つ一つに住まう四神は、この世を覆う全天からのめいのもと大陸全土に恵みを与え、彼らの怒りは天災として全ての民に降りかかる。神の恩寵が約束されるように祈る神官と修道士が治める土地は、他の公国が決して手を出さない地帯であった。

 散在する教会自治区は、それぞれ数人の神官が政治を管轄し、修道士が教育福祉に携わっている。その神官を任命するのは教会組織を統括する総帥だ。ただしこの総帥が表に出て教会自治区の運営指揮を執る姿は――少なくとも近年は――ほぼ目にしない。教会全体の中枢として機能する教会自治区ケントロクスにおいても、いわば総帥代理として実務に当たるのは直属秘書官だ。

 秘書官の勤務する館である教庁は政治機関としての機能を果たし、祈りを司る聖堂とは別である。後者は、祭祀の際にはもちろんのこと、日頃から心の内を打ち明けに民が訪れ、また聖堂を持つ修道院では修道士たちが身寄りのない子供たちの世話や読み書きの教授も行なっている。

 街の秩序を整備する教庁と精神的な安らぎと救済の場として聖堂。この二つを軸に、教会自治区ケントロクスは成り立っていた。


 

 

 南からの風が上空を通り過ぎ、尖塔の先に座った鳥の模像を回す。まるでそれを待っていたかのように、赤茶色をした煉瓦屋根の下で時計の針が一つ進み、軽やかな鐘の音が響いた。

 まだその旋律が鳴り止まないうちに木の扉が威勢よく開き、修道院の庭に子供達の笑い声が弾け飛ぶ。

「こらこら皆さん、ご飯のすぐ後に動くとお腹を壊しますよ」

 手を叩きながら出てくるのは灰色の長衣に身を包んだ婦人である。叱りつける言葉とは逆に、服と同じ色の被り物に覆われた顔には笑い皺が刻まれている。

 きゃあきゃあ騒ぎながら走る子供の群れに逆らいながら、市門の衛士は婦人に声をかけた。

「ミネルヴァ先生、こんにちは。彼女はいますかね?」

「あら、こんにちは。ご苦労様です」

 婦人は衛士に気づくと、それだけで用件を理解した、と衛士に微笑む。

「呼んでまいりますわ」


 ***

 

 色硝子を通した淡い光が聖堂内に射し込んでいる。夜は冷たく見える白石の床も、この時間は柔らかな表情に変わる。外の騒がしさが遮断された空間で、踏み出された靴の音は堂いっぱいに広がり、壁に跳ね返って静謐な空気と溶け合う。

 足音を包み込んで聖堂内の一様な気が変わった。整然と並んだ黒茶色の長椅子に腰掛けていた女性が、真っ直ぐに伸ばした背はそのままに、首だけを回して振り向いた。一つに結んだ長い髪が振れ、椅子の背もたれを撫でて落ちる。

「セレン、いま大丈夫かしら」

 呼びかけに振り向いた相貌はまだ若く、女性というより娘という言葉の方が似合う。流れるような挙措で立ち上がると、長椅子が作る列の間で足を止めたミネルヴァと向かい合う。

「子供たちがどうかしましたか」

 気遣いがこもった声は低いがよく通り、耳に心地よい。硝子を抜けて入った光を受けて肌の白さが際立ち、薄闇の残る堂内で彫刻のようにすら見える。

 しかし、それらの美しさを忘れさせるほどに、向かい合う者を強く惹きつけるのはその双眸である。

「秘書官様がお呼びだそうですよ」

 穏やかなミネルヴァの言葉に、セレンと呼ばれた娘のまなこが細くなる。

「参りましょう」

 その色は、まさに夜空の闇にくっきりと線を引く冴えた三日月と同じ――

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