月色の瞳の乙女(カクヨムコン9参加)

佐倉奈津(蜜柑桜)

序章 月下の桜

 太陽昇る昼には金に、月と星辰が煌めく夜には白銀に海は輝く。あらゆる命を生み出す大海が生まれたのは果たしていつ頃か。それを知るのはこの世を統べる神のみと、その生成の記憶を持たぬ人間は言う。

 絶えることなく揺れる水面は、いったい何千回、何万回と黄金としろがねに色を変えたか。数えることもできぬほどの波が行き来した海を、いつしか天は四つに分け、四つの力に託したという。

 大神が遣わす四つの神の庇護を受け、天に祝福された大陸が成った――その名はアンスル。

 神は大陸に生命の種苗を蒔き、息吹いた存在ものたちが自らの意思を持ってからさらに計り知れない年月が過ぎた。アンスルに生まれた種族の一部たる人間は、己の弱さを埋めようと寄り添い暮らすようになる。だが子が生まれ、孫が生まれ、初めの絆は薄れゆく。人々は時に交わり時に戦い、その繰り返しの末、かつて一つだったアンスルは数多の諸侯が大小様々な領地を治めるようになった。その中でも大陸中央に位置するカタピエ公国は、歴代の賢君による良政ゆえに軍事、経済ともに力を伸ばし、その勢力たるや他国を圧するまでに成長した。

 その後、時は流れた。

 幾代と続いたカタピエ公国の誉れもいまや昔。当世の公国領主メリーノは他に例を見ぬ好色で知られ、近き遠きを問わずアンスル大陸の至るところから諸侯の娘を我が身の元へと嫁がせた。何代も世代が変わるにつれ勢力を増し続けたカタピエに他国の諸侯抗うこと難しく、涙を飲んで愛娘を大陸の中央へ送った領主の数は、もはや両の手足の指の数では足るまい。

 アンスルのどの土地と比べてもおぼえめでたいカタピエの桜が蕾を膨らませ、命芽吹く喜びの季節を知らせ始めたこの頃もまた、遠い北の地からメリーノの宮殿へ、身を飾りたてられた令嬢を乗せた馬車が到着した。

 だが、その華美な車が門に入ったのを見守り、衛兵は囁く。


 あの公女は神の眼を逃れ、宮廷ここに留まることができるだろうか、と——


 ***


 少女はおろしたての清潔な布団の上に腰掛け、外をぼんやりと見ていた。

 北の国に比べるとここは随分と暖かい。それなのに窓の向こうから射し込む月の光は郷里で見るよりもずっと冷たく、その透き通るような色は指を凍らす雪のようだ。

 心地よい眠りを約束しそうな滑らかな寝巻きは国で身につけたこともない極上の質であるのに、自分で自分の身体をいだいていないと震えが止まらない。慣れぬ肌触りに皮膚が粟立つ。独りとは吹雪よりも激しく身を震わせるだなんて、これまで知る機会などなかった。

 まだ胸の内に恋の兆しすら蕾をつけたこともないのに、自分は顔も知らぬ暴君のものとなり、花開くことも許されず枯れるというのか。

 カタピエに楯突けば祖国セルビトゥの行く末は決まっている。領民を守るべき公女の責務として覚悟を決めたはずだった。だが、所詮は想像するだけの国との離別。現実になればこんなにもすぐ頬が濡れるとは。

 自由に使えと宛てがわれた部屋は、値が推し計れぬほど豪奢な宝石細工に飾られ、絹をふんだんに使った寝具が主人を迎える。しかし剣を佩いて扉の向こうに立つ者があっては、柔らかな布に肌を当てても眠りは訪れない。今もまた、木扉の向こうで見張りが交代している——ここは牢だ。

 外は雲こそなく晴れ渡っているというのに春の嵐が吹き荒れ、風が窓の玻璃を打つ。おさまらぬ乱風は、えもいわれぬ不安にささいなまれる我が心と同じか。

 ——どうせ眠れないのなら、いっそ永遠の眠りについてしまおうか。

 寒くないようにと侍女が予備で置いていった毛布は細い網紐で束ねられている。侍女の計らいはこの屋敷で僅かな心の慰めではあるが、どうせ冷たくなる身だ。緩い結び目をそっと解くと、公女は窓に映った自らの手が紐を首元に巻くさまを眺めた。

 しかし突如、窓の中の自分の腕が宙で止まり、網紐がするりと足元に落ちた。

 喉まで上がってきた叫びは、口元を覆う手に邪魔され声にならずに飲み込まれる。

「黙って。先ほどまでいた見張りが戻ってきてしまう。私は貴女を害するようなことはしない」

 耳元で囁かれる低い声。厳格だが悪意は感じられない。公女は黙って頷き、強張った腕を下げた。

宮廷ここを出る。逃げたければ、私の言うことを聞くんだ」

 声の主が何かを寝台の上へ投げ捨てる。見張りの従僕の羽織だった。振り向けば上着を脱ぎ去った黒装束に包まれた身体は細身だが、引き締まった四肢は布の上からも見て取れる。頭に巻いた布の間に現れる肌は白く、切れ長の眼のうちで銀を帯びた双眸が闇の中で光る。

「まさか、あなたが、これまで?」

 公女の耳に巷間の噂話が蘇る。

 ——これまでに何人もの娘を我がものとしてきたカタピエ領主であるが、近頃、宮廷へ輿入れした花々は、その日の夜のうちに姿を消すという。祖国に問い質しても知らぬ存ぜぬ、実際に、娘の姿も見えない。

 人は囁いた。領主メリーノに嫉妬した神が、宮廷から娘たちを奪ってゆくのだと——

 娘達が消えたという噂は本当であったか。そして実際には、いま目の前の人物が彼女らを助けていたのか。

 目を丸くする公女に、相手は形の良い眉を僅かに上げた。

「勘違いしないでいただきたい。私は貴女を助けるのではない」

 低い囁き声で吐き捨てる。

「あのカタピエ公は単なる女好きではない。メリーノが貴女がたを手中で愛でるのは、各地に己の勢力の種を植え付けるために過ぎない」

 娘を盾に取られては、諸侯はカタピエに伏するしかない。そうやってメリーノは自らの支配をアンスル全土にじわじわと広げている。

 しかし公女一人の制御力とてたかが知れている。メリーノによる横奪が続き、それが度を越せば、いたずらにカタピエを攻めんとする国が出てこよう。だが精鋭揃いのカタピエ軍相手とあれば、その結果は明らかだ。

「あのカタピエの愚公が勢力を蔓延らせるのも恐ろしいが、要らぬ血でアンスルが染め上げられるのはこちらとしても大いに困る。私たちが貴女がたをここから連れ出すのは、メリーノが撒き散らす火種を消しているだけだ」

 公女の手を取り、相手は念を押す。

「よろしいか。貴女は私とここを出て、セルビトゥ辺境に身を隠す。しかし貴女の父君はことになり、貴女は祖国に

 相手の強い声音に、公女は黙ってうなずいた。


 ***


 二人はするりと扉を抜け、沈黙が支配する廊下をひた走る。夜気はまだやや肌に冷たく、冬の名残りが感じられる。

 時折り物陰に身を隠しながら、広大な宮を順調に先へと急ぐ。しかし、幸運がそう長く続くはずもない。

「待て、そのものをどこへ連れて行く」

 身を震わす冷たい声が夜闇に響いた。驚き振り返る公女の眼前に、自分を先導していた者がすかさず躍り出る。

 闇を切る鋼と鋼のぶつかる音が静寂を破った。

 震撼する空気が鎮まりきる直前、相手の口が開き、剣戟とは別の落ち着いた波動を生む。

「公女をカタピエの目から隠し、神のもとへ連れて行くとはお前のことか」

 交わる刃の向こうで、廊の角から姿を現した男の飴色の眼が光った。端正な顔立ちに冷徹な色が浮かぶ。公女を背の後ろに隠した銀の眼の者は、抜いた剣にかける圧を増した。

「神の怒りに触れたとわかってなお、なぜカタピエは悪癖を正さない」

「聞かずと知れたことを。美姫を目にしては神相手にも奪いたくなろう?」

 嘲る一言とともに刀身が宙を走り、その場に疾風が起こる。公女を庇う長身の頭を覆っていた布がはらりと落ちた。

「ほう……お前は……女か」

 ひと結びにした漆黒の髪が布から溢れでて、月明かりを反射し闇の中で踊る。あらわになった鎖骨の間で銀に縁取られた石が弾んだ。蝋燭の火に照らし出された顔は白く、ひき結んだ唇は艶やかな桜色。

 動じた様子もなく女は剣を構え直し、長い睫毛に縁取られた銀の瞳で男を睨み返す。その輝きは月光を映し出したかのように清く静謐であり、眼差しひとつで相手を射るようだ。

 男は目を見張り、女を頭の上から足先まで眺め回した。

「美しい」

 この世ならざる存在の幻術にかかるとはこのことか。メリーノの目はこちらを睨み据える瞳に囚われ、自我を失った嘆息が漏れ出る。

「月の色の瞳か――お前のように美しき女が手に入るならば、さも大きな喜びが得られるだろうな。その者、どこに主人あるじを持つ」

 笑いの混じる声は、あたかもうまい獲物を目にしたとでもいうようだ。

「私たちが身を捧げるのはアンスルのどの権力でもない。手中にしたところで、砂ひとつかみの地も得られまい」

 いまや囁きをやめ凛と張った声はやや高く、確かに女性のものである。揺らぎなく暗闇を突き抜けて響く調子は黒地に走る金糸を思わせる。

「セルビトゥの娘は連れて行く。貴様の欲と策に怒った神の罰だと思うが良い」

 途端、窓を覆う布が翻り男の視界を奪ったかと思うと、玻璃の割れる音が廊下に響き渡った。

 咄嗟に腕で顔を覆い、弾け飛ぶ破片から身を庇う。窓から吹き込んだ春の突風に室内を飾る金属が音を立てて震え、男の身動きをしばし封じた。

 再び開けた眼の前に、もはや二人の女の姿は無かった。

「天の使いか……」

 大陸に主人はないと女は言った。あれほどの美貌と戦慄すらさせる威厳は、神の娘と言われても疑問はない。

 だが神の娘であれ、あの美しい姿は手を伸ばせば触れられる肉体を持って現前した。

 割られた窓の向こう、庭に立つ桜の木の蕾は、まだようやく薄い紅色の蕾をつけ始めたばかりだ。

「この桜の花が咲き、花弁が散るまでには、お前をこの手に捕らえてみせようじゃないか」

 柔らかな茶の髪を夜風に流し、男は白銀の月を見上げて笑んだ。


 ***


 アンスル大陸の諸侯が恐れるカタピエ公国の領主が、飽くことなく地方へ求めた公女の輿入れは、春の嵐の次の日から、ぱたりと止んだという。

 カタピエに嫁いだはずのセルビトゥの宮廷に公女は戻らなかった。ただごく僅かな人だけは知る。セルビトゥ辺境の修道院に、少女が一人増えたことを。

 あちらこちらへ女を求めていたカタピエ公国の豹変ぶりに、人々は噂した。セルビトゥほどの小国の公女さえ奪われ、ついにメリーノ公は神に恐れをなし、自らの好色を悔いたのだと。

 しかしその日から、この若き公が桜の花を見ては白銀の月を仰ぎ、小さくため息を漏らすのを、臣下たちは毎夜目にすることになる。

 巷とはまた別の話が、下々の間で囁かれ始めた。

 大国カタピエ領主が求めるものはいまやひとつ、漆黒の髪と月光の瞳を持つ妙なる美女なのではないかと。

 春の嵐が新たな火種をつけたのを、まだかの娘は知らない。

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